さて、妙福寺を後にしてその先へと向かいます。
〜二十四の物語に囲まれる神社〜
なんでも県下においてあまり例を見ない瑞垣(みずがき)があるのだとか。
いざ飯高神社へ
飯高神社
階段を登って行くと
沈み込んで曲がった階段。長い歴史の中でどれだけの人がここを通ったのでしょうか。
(とか書いて単に地盤が弱かっただけなら恥ずかしい。そして何となくそんな気がしている(笑))
飯高神社は、明治に神仏分離がなされ妙福寺(飯高1789)より分けられた神社です。祭神は、御中主命を祀っています。敷地649坪の境内には本殿(銅板葺神明造)、拝殿(瓦葺入母屋造)が建ち並びます。建物は三間社流造で周囲には玉垣を巡らしています。本殿は千葉県指定有形文化財です。玉垣と拝殿は匝瑳市の文化財に指定されています。境内は静かで独特な雰囲気があり、心が休まります。
もう一つ引用。
飯高神社本殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で外面の全体に彫刻が取り付けられている。周囲には銅板葺の屋根をもつ目かくしの板塀を巡らし、前面には拝殿を配している。
本殿の軒をささえる組物は、二手先で、軒は二軒の繁垂木(しげだるき)、身舎(もや)は四方縁で、向拝(ごはい)の階下には浜床(はまゆか)が設けられている。
昭和62年(1987)の修理の際、屋根に使われていた銅板に宝暦8年(1758)の墨書が発見されており、建築様式などを総合しても18世紀後半に建てられたものと考えられる。
この建物の大きな特徴は、壁面、組物と組物の間の小壁、扉、脇障子に中国の説話にもとづく二十四孝等の彫刻が施してあるほか、木鼻(きばな)、手挟(たばさみ)に至るまで本殿全体が彫物で装飾されていることである。これらは、下総地方の神社彫刻を研究する上で18世紀後半の指標となる重要な例とされている。
(千葉県HP 匝瑳市の国・県指定および国登録文化財より)
それぞれ千葉県公式サイトからの情報。
修理の際に出てきた墨書から宝暦八年(1758)という文字が見つかっているものの、「飯高村誌」では延亭四年(1747)に建てられたとあるらしい。これにより建立時期については年代をただちに特定出来ないとされる。
が、墨書きは屋根銅板に残されていたもの。
おそらくは建立から11年後、何らかの理由で屋根を修復した際に書かれたものではないかと素人ながらに思う。
また、神仏分離令が出されたのは明治元年(1868)のこと。
それにより妙福寺から独立・分離されただけで、神社自体の建立は(宝暦、延享のいずれにせよ)その100年以上も前の話となる。
前の記事で紹介した『下総名勝図絵』に記された「飯高妙見宮」とはこの飯高神社の事と見ていいのだろうか。
つまり時系列的には、
- (1310)およそ700年前、妙見菩薩尊像を祀る妙福寺が建立される
- (1747-1758)その約440年後、妙見宮を建立
- (1845)さらに100年後の江戸後期、『下総名勝図絵』に「飯高妙見宮」として著される
- (1868)明治元年、神仏分離令により妙福寺より分離独立。
- その間幾度もの修復を経て、現在に至る。
ということかな。
飯高神社 拝殿
飯高神社 瑞垣(玉垣)
匝瑳市指定有形文化財
飯高神社瑞垣 一棟
神社本殿を取り囲むように垣をめぐらしたものを「瑞垣(みずがき)」あるいは「玉垣(たまがき)」と呼んでいる。本神社の特徴でもある装飾の強い神社にふさわしく、瑞垣にも彫刻が施され極彩色で仕上げられている。彫刻の内容は「二十四孝」の彫刻であり、県内で同種のものは、成田山新勝寺以外に今のところ知られていない。
二十四孝とは、中国の孝行者二十四人を著した教訓書であり、日本では江戸時代に訳本も多く刊行されていたようである。
建築年代は、江戸時代中期以降と考えられている。
(現地看板より)
この二十四孝について調べている時、
ある記述を読み思わず声を上げて笑ってしまった。
福澤諭吉は『学問のすすめ』八編で以下のように『二十四孝』を批判している。
(前略)古来和漢にて孝行を勧めたる話ははなはだ多く、『二十四孝』をはじめとしてそのほかの著述書も計うるに遑あらず。しかるにこの書を見れば、十に八、九は人間にでき難きことを勧むるか、または愚にして笑うべきことを説くか、はなはだしきは理に背きたることを誉めて孝行とするものあり。
寒中に裸体にて氷の上に臥しその解くるを待たんとするも人間にできざることなり。夏の夜に自分の身に酒を灌ぎて蚊に食われ親に近づく蚊を防ぐより、その酒の代をもって紙帳を買うこそ智者ならずや。父母を養うべき働きもなく途方に暮れて、罪もなき子を生きながら穴に埋めんとするその心は、鬼とも言うべし、蛇とも言うべし、天理人情を害するの極度と言うべし。最前は不孝に三つありとて、子を生まざるをさえ大不孝と言いながら、今ここにはすでに生まれたる子を穴に埋めて後を絶たんとせり。いずれをもって孝行とするか、前後不都合なる妄説ならずや。畢竟、この孝行の説も、親子の名を糺し上下の分を明らかにせんとして、無理に子を責むるものならん。
(青空文庫 「学問のすすめ」八編より引用)
十中八九人間にはできないことを勧めるか、愚かしくて笑ってしまうようなことを説くか、理屈に合わんようなことを褒めて孝行とするものがある、と。
た・し・か・に!
親に蚊が近づくのを防ごうと自分に酒をかけるくらいならその金で蚊帳でも買えってそりゃそうだよね。
何事も歴史の重みや権威があるからと言って無思考で受け入れる事なかれ。よう己の脳みそ使うて考えてみぃ、と。
さすがは福澤諭吉さん。ごもっともです。
閑話休題。
瑞垣には彫刻それぞれに対応した説明も括り付けてありました
風化によって説明にあった極彩色は、ほぼほぼ落ちてしまっている様子。
そのまま回って行くと、反対側の門が開いていて中に入れるようになっていました。
飯高神社 本殿
まとめ
歴史を感じさせる石段に神社。
そして素晴らしい彫刻などなど、一見の価値ありです。
本殿のすぐ前まで入れるのが嬉しい。
神社の周りは所々巨木の見える森。
清々しい空気でした。
神社自体の経年に寄る劣化が激しいのが悲しいところ。
拝殿を支える柱も痛々しい。
できれば綺麗に修復してあげて欲しいところです。
ということで次は飯高檀林跡の飯高寺へ。
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