八百屋お七という少女をご存知でしょうか。
恋は盲目と申しますが、
いつの世もそれは変わらぬようでありまして、
恋い焦がれる乙女の目には想い人のほか何も見えなくなってしまうもののようです。
その昔江戸に広く知られた お七 という娘がおりました。
なんでも色白で類の無い美人であったとか。
然れども美貌ゆえにその名を馳せたわけではありませぬ。
お七の熱き想いが字の如く、
己が身をも焦がし候が故なりと。
八百屋お七の物語
「(あらすじ)
天和2年(1683)師走の28日、のちに「天和の大火」と呼ばれる火事が江戸で起こりました。火元は駒込の大圓寺とされ、南本郷・神田・日本橋あたりまで延焼はひろがり、死傷者も多数出たと言われています。
本郷で八百屋を営んでいたお七の家族も焼き出され、一家は駒込吉祥寺へと身を寄せることに。
避難生活の中でお七は吉三郎という青年と出会い恋に落ちるのですが、しばらくして店も再建され、一家は寺を引き払います。
その後の二人は文は交わせど自由に逢うことは叶いません。
想いを募らせるお七はやがて、
「もう一度火事が起きればあの方に逢えるのでは」
と、新築した家に付け火をしてしまうのです。
幸いにも近所の住人がすぐに気づき、小火(ぼや)程度で消し止められます。
しかし付け火は天下の大罪。
付け火の科人(とがにん)は火刑にて死罪と定められていました。
哀れお七は捕らえられ、
鈴ヶ森の刑場にて生きながら焼かれ、その短い生涯を閉じることとなったのです。」
(筆者要約)
実際は八兵衛という父親の名や、避難先の寺、慕う相手の名前(吉三郎)など諸説あり定まりません。
そもそも八百屋であったかどうかさえわかりません。
はっきりと裏付ける史料がないのだそうです。
そのため研究者の中にはお七の存在そのものを疑問視する声もあるのだとか。
ただ大方の意見ではその存在まで否定する必要はないとしているようです。
実際、記録としては僅かですが、
「駒込のお七付火之事、此三月之事にて廿日時分よりさらされし也」(戸田茂睡『御当代記』)
との記述を当時のものから見つけることができます。
(赤線は筆者。国立国会図書館デジタルコレクションより)
落語・歌謡・大衆芸能などへの広がり
逆に史料が少ないが故に、古今のクリエイターに刺激を与えるのでしょう。
事件の三年後に出された井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことをきっかけに、
少女の純粋さと悲恋の物語が人々の心を掴み、
物語は様々な分野で話のネタとして使われることになります。
八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
(wikipedia 八百屋お七より)
- 歌舞伎『八百屋お七歌祭文』
- 浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』
- 落語「八百屋お七」
他にも映画やドラマ、
歌では美空ひばり「八百屋お七」など。
お七は本当に付け火をしたのか?
先に挙げた戸田茂睡の『御当代記』において、
天和三年のくだりには興味深い内容が載っています。
これまた簡単に紹介すると、
「去年の十一月十二月の大火事から正月を超え二月に至るまで毎日ように火事が起きる。
昼夜に多くて8、9回も起きるのだがこれ全て放火である。
中山勘解由(なかやまかげゆ)を任にあたらせ、火事場で怪しいものを捕らえさせている。
また火事場に限らず江戸中に役人を回して捕らえさせているのだが誤認逮捕の数がおびただしい。
白状せぬうちは死ぬまで責めるので、放火していなくてもしたと言い、
科人でなくとも科人というから死ぬ者の数が非常に多い。」
(戸田茂睡『御当代記』より筆者要約)
火事場泥棒も結構あったようで、その目的で放火する犯人もいたんじゃないかと。
もしかしたらお七は誤認逮捕されたうちの一人だったのではないか・・・なんてちょっと思ったり。
ただ、それだけ付け火が頻発しているにもかかわらず、
「駒込のお七付火之事」とわざわざ名を冠し記しているところからすると、
当時からある程度話題になっていたことが伺える。
・・・ダメだって放火なんかしちゃ。
八百屋お七の墓がある長妙寺へ
さてさて、ある意味ようやく本題です。
お七の墓があると言われているお寺は複数あるようで、火元とされる大圓寺の裏にある圓乗寺もその一つ。実はお七一家が避難したのはここであったとする説もあるようです。
そして千葉県八千代市にある長妙寺にもまた、お七の墓とされる法名・妙栄禅尼の墓があるのです。
実はお七は養子に出された身で、母親がこの地の出身であったからと伝えられています。
…お七は現在の八千代市に生まれ、江戸の本郷に店を開いた八百屋徳兵エに養子として迎えられました。器量のよい娘で、その名は日頃願をかけていた当山の七面様から一字をいただきました。
(中略)
お七は天和三年(1683年)、火つけの罪で火あぶりの極刑に処されました。実母はこれを悲しみ密かにお七の遺髪を受け取り、当山に運び、戒名を妙栄信女と授与され、墓も世を忍び小さな墓石を建て密かに埋葬されました。
(長妙寺HPより)
ではさっそく長妙寺へと向かいます。
住所は千葉県八千代市萱田町640
296号線沿いにあります。
勧請する守護神は、国の守護神である三十番神、五穀豊穣と山門守護の稲荷大明神、学問の神様といわれる天神様をおまつりしています。
(長妙寺HPより)
ま、それはさておき、
ちゃんと打てるように小さな木槌が前に置いてある
八百屋お七の墓
さて本堂の左側へ回り込みますと、お七のお墓が見えてきます。
「天和二年三月二十九日 妙榮信女 八百屋お七㕝」とあります
※「㕝」は「こと」。つまり「八百屋お七 こと 妙榮信女」という意味。
ただしこの立派な宝篋印塔は裏面の彫刻によると昭和四十八年に建てられたもののようです。
(刑死したのは天和三年)
いくつかの疑問
さて、
もう少し情報はないかとこの地域の古い文献にも当たってみました。
大正十五年に発行された『千葉郡誌』(コマ416)の長妙寺の項を見てみます。
(国立国会図書館デジタルコレクションより引用)
しかしながら八百屋お七の墓所についての言及はありません。
八百屋お七ほど有名な話ならその墓があることに触れていても不思議はないのに。
名勝舊跡及墓碑の章(第十五章)においても記載はありませんでした。
もっとも母親が人知れず小さな墓を設け、密かに供養したというのなら無理からぬことではありますが。
もしかしたら寺伝の古い史料などには何か記されているのかもしれません。
もう一つの疑問としては・・・
「遺髪を受け取り供養した」とありますが、火あぶりで処刑されたのに髪の毛が残るのかなぁ、なんて。
あまり想像したくはないけれど、罪人の体を萱で覆って火をつけたとのこと。
一気に炎に包まれたら一番燃えやすいのが髪の毛だとも思うのですが。
まぁ遺髪と表現しただけで、実際はとにかく一部を持ち帰り供養したのかもしれません。
痔の呪い(まじない)
この長妙寺は「痔の呪い(まじない)」でも有名だそうです。
ぢの呪(まじな)いは、当山二十九世日康上人が強烈な信仰を以て法華経三千部を読誦して祈願者の病気平癒と速除苦悩のご祈祷の秘法によって救いたいと心願を立て、旧暦八月十五夜の夜、一日に限る痔の呪いをされました。
以来痔の呪いは当山年中行事の中でも最も重要なものとなり、ご利益を頂戴した人から人へと伝えられ、関東一円はもとより、北は北海道南は九州、さらには海外からも申し込みがあります。(長妙寺HPより一部引用)
参加される方はお間違えのないように。
まとめ
人を好きになることは素敵なことですが、
周りが見えなくなり過ぎるのは考えものです。
ましてや関係のない人々の命を危険にさらすなどあってはならぬこと。
一説には悪い男にそそのかされたという話もあるようですが・・・まだ15、6の少女にはわからなかったのかな。
悲しい結末です。
来世があるなら是非幸せになっていただきたい。
ということで今回は以上!
コメント