さて印西市の薬師堂(観音堂)巡り三つ目。
栄福寺薬師堂、宝珠院観音堂と来て最後は「泉福寺薬師堂」です。
印旛沼にほど近い場所に建っています。
泉福寺薬師堂
県道64号線から脇道に入って行くのですが特に道標や看板などはありません。
間違えないようにご注意を。
泉福寺山門(四脚門)
注連縄につける「紙垂(しで)」は千切れちゃってますね
竹林に囲まれ、屋根には「輪違(わちがい)」の紋。真言宗豊山派の宗紋だそうです。
泉福寺は開基や沿革が明らかではありません。弘治2年(1556年)に焼失してその後再建されたと伝えられています。正面側面ともに三間の堂で、屋根は茅葺寄棟造です。柱はすべて丸柱で、垂木に古いものが残っているものの建具は創建当時のものではありません。
部は後部2間が内陣、前部1間が外陣という構造になっていますが、現存の構造や痕跡からかつて中敷居を入れた建具があったと推定されています。 内陣は、側柱筋から後へ寄せて須弥壇の背後に立つ2本の来迎柱を立てている関係で、来迎壁、須弥壇とも後方に移って内陣の空間が広くなっています。
建立年代は建築手法から室町時代末期と考えられ、栄福寺薬師堂、宝珠院観音堂の後に位置付けられます。昭和56年の解体修理によって、貞享2年(1685年)に現在の地に移築されたことがわかりました。
(印西市HPより)
印旛沼の西方に位置する泉福寺は真言宗の寺院であり、その創建については明確でない。弘治二年(一五五六)に焼失して、その後に再建されたと伝えられ、薬師堂は室町時代末期の手法を示しているので、この時のものであろう。桁行三間、梁間三間、寄棟造、茅葺で東面する、桁行より梁間の方がわずかに長い。四面には切目縁を廻し、後補の軒支柱を立てる。柱間装置は板壁以外、後世改変されたもので痕跡によると、正面三間は唐戸構え、両側面、前端間は引違戸、北面中央間は全面板壁であったと考えられる。内部は前寄り一間通りを外陣とし、内外陣境は現在開放となっているが、もとは三間とも中敷居を入れた、建具装置があったらしい。内陣には側柱筋より後退して来迎柱を立て、来迎壁、須弥壇を設ける。須弥壇上には後補の厨子を置くが、厨子を納めるときに通肘木の中央部が切り取られている。天井は外陣、内陣とも天井桁を廻わし竿縁天井を張る。この堂は千葉県下に多い和様と禅宗様からなる三間堂の遺例の一つで建具廻わりを除いては古材の保存がよく、垂木にも古いものがある。中世における関東地方の建築の流れを知る上に重要なものである。
(説明板より一部抜粋)
まとめ
さて室町時代初期から末期にかけて作られた薬師堂・観音堂を見てきました。
こういうお堂って一見するとどれも同じように見えてしまうのですがよく見るとちょっとずつ違うものですね。
今回まわってみて気がついたのは非常に綺麗に保存されていることはもちろんですが、
創建より数百年もの間、手を合わせに来る人が絶えることなく続いてきたと言う歴史そのものでした。
年配のご夫婦が私の後からやってこられ、手を合わせたのちに軽く挨拶を交わし、お堂の後ろへと消えて行きました。しばらくして背面に回って見ると林の奥へと続く細い道があるのを発見。散歩の途中だったんでしょうかね。
なんかお堂と人々との距離感がとても素敵だなと感じました。
隣の建物は小学校だったようですが平成の終わりとともに閉校したそうです。
移ろいゆくのは世の常ですが今後とも大事に維持していただきたい、そう願いつつ・・・
今回は以上!
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