「死」という恐怖

スポンサーリンク
スポンサーリンク

死に対する考え方

なんか重いタイトルですが・・・。(^^;
(そんな深い話ではないのであっさり読み飛ばしてください。)

今日ある人から面白い考え方を聞いた。

お互い虫が苦手だという話だったのだが、その人は死骸が怖いという。苦手だと言う。

死んだものは魂が抜けたようで冷たい感じがするから、らしい。

その代わり生きている虫は愛らしく感じるそうだ。

虫を考えると死は身近

自分は虫の中でも特に節足系のものが苦手だ。
むしろカブトムシでさえゴキブリとなんら変わらないように思えてならない。

その代わりミミズ系などは問題ない。釣りエサにつかうイソメなどに触れる機会があるせいかな。
裏返してもウニョウニョ足が動くことが無いからだとも思う。

この話を書いていて脳裏に浮かぶものは死んだ虫の奇妙にも正しく折りたたまれた節足。
それが「死」という概念に結びついているという事からなのかも知れない。

子供の頃はよくカブトムシの幼虫を掘り起こして飼ってみたり、蟷螂の卵を採って来て引き出しに入れたことをすっかり忘れ、気がつけばわんさかとあふれ出てくる彼らをみて、恐れなく単純に驚きの目を持ってみていたことを考えると不思議でならない。

しかし現在の自分を観察してみると、ここ暫くマイブームというべき「意識」に関係があるような気がした。

スポンサーリンク

意識との関係

大抵の生物は己を守るために危険を回避する行動を本能的にとる。(と思う)

だがゴキブリなどはどうか。むしろ人間に向かってくる事もあるではないか。飛んでくる事さえある。

彼らは彼らなりにそういう行動でひるむ人間(外敵)を知り、その隙に逃げると言う方法論をDNAの中に書き記してきたのだろうか。
それとも反射的にただ状況を変えるべく無作為に行動しているだけなのだろうか。

ゴキブリは人間が生まれる遥か昔の3億5000万年前の古世代地層より化石が発見されているらしい。
とするとゴキブリの方が時代の浅いひるむ自分に対してその歴史を感じさせようとしていたのか・・・。(笑

いずれにせよ、己の考える「意識的行動」の中に無い行いをする存在について、恐怖というか気味悪さを感じているのではないか。そう気づかされた。

その根源には今の自己という存在を保持したいという思いがあり、理解できないものは危険という概念だろうか。
もっと言えばその意識を想定して行動が起こせない=不気味という感情=リスクということなのか。

また先日友人からグロい映像をみたという話を聞いた。
私的な処刑の映像だったそうだ。詳細は割愛するが生きたまま首を切り落とされる米兵らしき動画を見たらしい。話を聞いただけで身震いがし、恐怖を感じた。

その「意識」を想像(共感)してしまったからだと思う。

生きているものはいずれ死ぬ、という「知識」も持っており、一方で生命を維持するという本能的な「意識(無意識)」を自分は持っている。
そう考えるとこのブログを今書いている自分と捉えている「(機能的な)意識」と「本来の自己(無意識的自己)」というものに若干の隔たりを感じてしまう今日この頃であった。

【追記@翌日】
またやってしまった・・・。
酔っ払ってわけのわからん事をうだうだと書き込んでもうた・・・。反省。(--;

戯言
スポンサーリンク
Google検索
関連コンテンツ
wholenotism.comをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました