さてさて前回の続きです。
松虫寺に参拝した後、
「杉自塚」という場所に向かって走って行くと、それらしき場所を発見。
松虫寺からほど近く、十分歩いて行ける距離です。
T字路(三つ辻)になっている場所に根元がこんもりとした木が生えており、小さな立て札が立っています。
杉自塚
ちなみに杉自さんは都から松虫姫と一緒にこの地へやってきた乳母。
姫の病が治癒した後、都へ戻るには高齢であったためこの地に残り、村人に機織りなど都の技術を残し伝えたとか。
彼女を偲んで塚が建てられたそうです。
ここかと思いバイクを停めてみて見るも、道祖神関連と思わしき石仏や庚申塚などが立っている。
”杉自塚”らしきものが見当たらない。
2本の木が生えている根元がこんもりと盛り上がり、これかな?と思う所はあるのだが、塚の表記がないので自信が持てない。
そこにちょうど犬の散歩をしているご婦人が通りかかったので、挨拶しつつ尋ねてみると、嫁にきた身なのでよくは知らないという。
お礼を言って別れたのだが、少し離れた先で竹林の手入れをしている人にわざわざ尋ねてくれていたようだ。
・・・その声が聞こえてきたので、申し訳なく思い近づいて話を聞いてみると、どうやらこの木の根元で間違いなかった。
ちなみにこの木はそれぞれ違う2種類の木らしいのだが、根の所で一つ絡み合って生えているという。不思議。
御婦人には改めてお礼を言って、おっちゃんの話を聞いていたのだが、なんと松虫姫が沐浴したという水場があるらしい。
面白そうなので「そこに行けますか?」と聞くと、案内してくれるとのこと。ありがたい。
で、若いし大丈夫だろう、と言うとそのままショートカットして山の中へw
しばらく獣道を歩いた先に、その水場はありました。
昔は常に水で満たされていたらしい。
が、近くを横断する車道を作ったが故に水の通り道を遮断してしまったのか、時期によってはこのような状態だという。
歩きながら教えてくれたのだが、その道はまさに獣道で、イノシシが出るようだ。
まだ明るかったし、この時間帯なら人間様が歩いていても良いが、暗くなってくるともうダメだ、といっていた。
僅かに残った水場で体についた虫などを取るのだと言う。
確かにイノシシ注意の看板を見かけた気がする。。。
侮るなかれ。野生のイノシシ。
ちなみに水辺には小さな小さな祠のようなものがあり、中にはこれまた小さな仏像が安置されていたそうだが、いつのまにか無くなってしまったらしい。
盗む人間などいるのだろうか。う〜ん隣のかの国あたり?まさかね。
それともイノシシが?w
【追記】
小さな石祠のようにも見受けられる。かなり小さなものなので仏像があった云々は記憶違いという可能性あり?
珍しい黄色い竹「花稈早竹」?
竹林の中を戻りつつ、この辺りも過疎化が厳しくてなぁ、そこに家があるんだ、と指を指す。
先にあるのだろうがそこからはよく見えなかった。
だが住人は死んでしまって今は空き家だ、という。
また別の方向を指差し、そこにも大きな家があって、その集落ではもっとも古く、大きな家だったらしいのだが、潰えてしまってそこも空き家だという。
もう数十年もすれば三分の一から半分は居なくなってしまうだろうとも。
そもそも手入れをしていた竹林も、もはや持ち主が居なくなってしまったので、そのおっちゃんが暇を見つけては手を入れている、と言っていた。
そうしないとダメになってしまうのだと言う。
「あんた植物とか詳しいか?」
と聞かれ、詳しくないですと答えたのだが、近くに面白い竹があるので、ついでに見せてやろうと言うのでついて行った。
誰かから「○○竹」というんだ、と教えてもらったが忘れてしまった(笑)、という。
あたりは青々として直径20cmを超えるような竹が一面はえているのだが、
向かった先の一角だけ、不思議な模様の竹が密生していた。
面白い事に、この場所だけなのだという。
すぐ隣には青々とした竹(孟宗竹)が普通に生えているのだが、確かにその場所だけ不思議と黄色と緑で模様を描く竹が生えていた。
後々調べていると、「花稈早竹(かかんそうちく)」というらしい。
竹の子が美味いらしいのだが・・・貰ってくればよかったw
松虫姫はハンセン病じゃなかった?
ところでそのおっちゃん、奈良によく行くのだと言う。
定宿にしているところのご主人が歴史に造形が深いらしく、松虫姫のことを話題にした所、一風変わった説を話してくれたらしい。
奈良の地はその昔、露天掘りで水銀が出たそうな。
それで多くの人が集まってきて、結果都が建てられたのだという。ゴールドラッシュならぬ水銀ラッシュだったようだ。
そもそも松虫姫はハンセン病(ライ病)という説が有力らしいのだが、
そのような状況から恐らくは水銀による中毒で、なんらかの病気を発症したのではないか。
その結果、都から追われたのか遠ざけられたのかはわからないが、遠く離れた地へとやってきたのではないか。
しかし水銀というのは時間をかければ徐々に体外へと排出されていくのだという。
故に時間がたち、水銀も抜け、病としては回復したのではないか、という話だった。
「でもそれじゃロマンが無いよなぁ(笑)」
というおっちゃんの笑顔が印象的だった。
姫の病が癒えたのは薬師如来の御利益ですよ。きっとね。
陸路ですらなかった? 海路説
松虫姫ご一行は奈良の都からはるばる陸路で旅をしてきた、と伝承にはある。
未開の地への旅路であったが故に苦労苦難も多く、従者達は一人、また一人と逃げ去って行ったという。
千数百年前、という事を考えても無理からぬ事だと思う。
だがこの近くには印旛沼があり、北には利根川が流れているのだが、昔はもっと海が近かったそうだ。
かなり内陸ではあるので海岸線とはいかないが、当時陸地面はもっと少なく、船での移動が便利だったのではないか。
香取海(かとりのうみ)は、古代の関東平野東部に湾入していた内海(うちつうみ)である。江戸時代まで下総・常陸国境周辺に存在した。流海(ながれうみ)、浪逆海(なさかのうみ)とも呼ばれた。
香取海は霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼をひと続きにした広大な規模の内海だった。また様々な河川が流れ込み、面積は東京湾に匹敵するほどだった。古くから水上交通を通じた独自の文化圏・経済圏が形成されていた。これを巡る争奪戦は平将門の乱や平忠常の乱、治承・寿永の乱の原因・遠因となった。
東北地方や北関東・南関東、さらには西国への物流経路としても注目されている。
(香取海 wikipediaより)
実際千葉の太平洋沿岸には和歌山の地名と同じものや似たものが多いという。
(諸説あるようだが)その昔、船で和歌山から来た人たちが住み着いたというのが理由らしい。
なので松虫姫も牛車にひかれて陸路で来たというが、実際は船で来たのではないか、と言っていた。
なるほど、その方が理にかなう。
お付きの者も含めた団体さん、陸路ならば数ヶ月もかかるであろう道のりだが船であれば数日で済んだのかも知れない。
でもそうすると、牛むぐりの池に入水したという牛の立場が・・・(^^;
牛むぐりの池
松虫姫公園というのが松虫寺から1kmほど離れた場所にある。
都から松虫姫を乗せて(引いて?)きた牛が、都に戻るには年老い過ぎているという理由で置いて行かれ、あまりの悲しさに身を投げたという伝説がのこる池。
【追記】
後日、写真を撮ってきたので掲載。
松虫姫公園にある牛の象。
公園は池の横に整備されています。
ちなみに駐車場は一般が池側、障害者用駐車場が公園側にあるので注意。
公園から池へと降りていく階段。
親子が犬の散歩をしていました。
戻って階段を上がると、ぬこたんがお出迎え。
もとい、ご休憩あそばすぬこ様でございます。
怒らせると恐ろしい北向き道祖神
最後に「北向きの道祖神」を教えてくれた。
庚申塚や道祖神の石碑などは村の境界にあり、悪いものがその集落に入ってこないように北と南におかれた。
そして道祖神は基本的に南に向けて置かれるらしいのだが、それは北向きに置かれ、大変珍しいという。
さらにはこの道祖神、怒らせると大変恐ろしいという話で、近くの住民は昔からその季節に採れた野菜などをお供えし続けてきたという話もきいた。
写真を撮ってよいものかどうかしばし迷っていたのだが、お礼を言って別れていたおっちゃんが再び軽トラで登場。
「そこだよ。そこでしょんべんなんかしたら大変な事になるぞ(笑)」
と言ってきたので笑ってしまった。いや、誰もしないでしょw
なんとなくその会話で迷いがとれたので、写真を一枚だけ取らせていただいた。
松虫寺へと入って行く道の脇、フジの枝がからまった大木の根元に鎮座している。
ということで今回は以上!
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