昔、印旛沼に住んでいた若い龍が干ばつに苦しむ村人を見かねて雨を降らせてしまった、
竜王に禁じられていたにも関わらず。
結果その若い龍は雷光・雷鳴とともに空で三つに切り裂かれ、地へと落ちる。
村人は龍の死を悼み、落ちたその地に供養の寺を建てました。
龍角寺に続き今回はその腹が落ちた場所、その名も龍腹寺へと向かいます。
龍腹寺 本堂(?)
気づかずに一瞬前を通り過ぎました。
カーブの外側にひっそりと黒い門があるだけで、見過ごしました。
ちょいと戻って改めて確認。
しかしなんと鍵がかかって入れません。
ん?どゆこと?
門の間から覗いてみると、立っている柱には確かに「龍腹寺」の文字が。
映ってはいませんが本堂らしき建物もあります。
とにかく現在は一般に公開していない模様。
ここから北へ100mほど行った所に「延命地蔵尊」があるのですが、現在はそこが龍腹寺を兼ねているのでしょうか。
というか龍腹寺の本堂と地蔵堂が少し離れて建っていて、本堂の方を閉鎖して地蔵堂の方だけ門戸を開いている、という方が正しいのかな?
どうやらもともとはとても大きなお寺さんだったようで、
「千葉県史跡と伝説」(荒川法勝編,暁印書館,1990,p56)によれば
七堂伽藍をそなえ、寺中二十五房、菅下七十箇寺、北総屈指の巨刹であった。
とのこと。
このあたり一帯を寺領とし、講堂(保安三年(1122)千葉常重が再建)や念仏堂(建長年間(1249-1256)北条時頼が建立)、五重塔(嘉吉二年(1442)千葉胤直が再建)など、数多くの堂宇が立ち並んでいたようです。
しかしながら火災や戦火に遭うこと幾たび。
そのつど再建・修復がなされるも、とうとう文政元年(1818)諸堂ことごとく焼失。
元治元年(1864)になってまた再建されたようですが、その後は補修などされず放置されていたようです。
一方、成田山新勝寺の別院、深川不動堂は昭和20年(1945)の東京大空襲により、堂宇ことごとく灰燼に帰します。
ここから運命の歯車が再び回り出す。
再建に向け、成田山には「深川不動堂本堂建立事務局」が開設され、着々と準備が進んでいきました。しかし占領下の日本では、建築面積等に制限があり、計画通りの本堂を建立することができません。そこで、千葉県印旛郡の天台宗龍腹寺地蔵堂を移築するという計画が検討され、成田山側と龍腹寺側による話し合いの末、譲渡寄進が決定しました。建物は、成田山工務課により解体され、深川へ運ばれました。昭和25年ついに本堂の上棟式が執り行われ、深川不動堂は甦ったのであります。
(成田山深川不動尊より一部引用)
閉鎖されていた本堂らしき建物が移築後に新築されたものなのか、他の堂宇が移築されたのかはわかりません。
いずれにせよ、
こちらの方へは入れないので地蔵堂の方を見て回ります。
延命地蔵尊
本堂から北へ100mほど行くと延命地蔵尊があります。
仁王門
木槌や履物が掛けてあるのが印象的。
何か道具に関して御利益があるのかな?
延命地蔵尊 地蔵堂正面。
右手には梵鐘。
南北朝時代の作とのこと。
千葉県指定有形文化財です。
その左奥には日枝神社。
地蔵堂の右奥、墓石が立ち並ぶエリアでなにやら小振りな建物を発見。
なにやら立て札も。
読んでみると・・・
(現地看板より)
怖わ〜〜〜〜〜!!
いつの時代も男女の仲がこじれると怖いものです。浮気はやめましょう。
早々に離れます。
地蔵堂前には大師堂が二つ。
和歌が書かれた板が掲げられています。ご詠歌というのだとか。
延命地蔵尊 本堂
本堂内部の赤い人。
誰?
まとめ
実は木下別所廃寺跡と呼ばれる寺跡が数キロ離れた場所にあり、古くはそこが龍腹寺と称していたという話もあります。
にしても毛堂とか怖すぎ。
さすがに800年弱も経てば、恨みも多少収まってるよね?
なんか祟られるとかないよね?
でもなんか忘れているような・・・
なんだっけ?
う〜ん・・・・
ん〜と・・・
∑(・o・;) アッ
龍の腹の話はどこ行った?(笑)
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