千葉県北部を主たる領域とした下総国。
その地の式内社として由緒ある神社の一つが、千葉県は船橋市にある意富比神社(おおひじんじゃ)です。
船橋大神宮とも呼ばれます。
式内社というのは延喜式神名帳に記載のある神社のこと。
延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。
(Wikipedia 延喜式神名帳 より引用)
つまり昔から多くの信仰を集めており、かつ朝廷から官社として認識されていた神社のこと。
さて、今回はその意富比神社へとご挨拶に伺ってみました。
意富比(おおひ)神社へ
ふなばし三番瀬海浜公園に釣りに行っていた時によく前を通っていましたが、
今まで一度も参詣したことがありませんでした。
実を言えば「意富比神社」という名前も今回初めて知りました。
「大神宮下交差点」とか「大神宮下駅」とか”(船橋)大神宮”という名称はよく目にするんですけどね。
意富比神社
社伝では、景行天皇40年、日本武尊の東征の折に当地で東国平定の成就を祈願したのに始まると伝える。当時、当地の住民は日照りに苦しんでおり、日本武尊があわせて祈雨を念じると、雨が降り出したとも伝える。元々同社では地方の太陽神である「意富比神(大日神)」が祀られ、特に周辺(東京湾)の漁民の信仰を集めていた。国史の初見は『日本三代実録』の貞観5年(863年)5月26日条で、延喜式神名帳では小社に列している。
後にこの一帯が伊勢神宮に寄進されて御厨(夏見御厨。船橋御厨ともいう)となり、その守護として伊勢神宮の祭神である天照大神を祀る神明社が現在の夏見台の日枝神社に建立されたが、御厨の衰退とともに神明社も廃れ、意富比神社に合祀された。その後、天照皇大神に対する信仰の方が強くなり、次第に意富比神社の社名は忘れられ、もっぱら船橋神明・船橋大神宮と呼ばれるようになった。戦国時代までは、この地域で、勢力を保っていた千葉氏系の豪族富氏が宮司をつとめていた。現在でも千葉姓に改名し、同族が宮司をつとめている。
同神宮には中世の文書が多数保持されていたが、明治維新時における船橋の戦いで社殿と共に焼失してしまい、現存しているのは、千葉満胤の書状や「船橋御厨六ケ郷田数之事」という応長年間の文書など数点のみである。明治6年に本殿、明治22年には、拝殿を再建された。明治5年(1872年)に県社に列格し、延喜式神名帳に記される意富比神社の名に復した。
(Wikipedia 意富比神社より引用)
R14から京成線大神宮下駅へと進む道を曲がり北上、駅の高架を通り過ぎたその先に鳥居が見えてきます。
駐車場もちゃんとあるのですが、入口がちょっとトリッキーなので事前に確認を。
鳥居の横の小路へと入っていきます。
しばらく進むと駐車場入口。
バイクはこの左手に駐輪場があるのでそこへ停めましょう。
このまま中に入っていった先の駐車場でも大丈夫です。
さて、正面の参道にもどってみます。
正面の鳥居。
参道を進みますと、右手には土俵。土俵?
そう、土俵です。
一瞬、え?ってなった。(笑
徳川家康公が船橋に宿泊時、漁師の子供達の相撲を供覧したのが始まりと伝わる。大人相撲は例祭日の10月20日開催ですが“しょっぱな”はこの故事にならい子供同士、形だけの取組。大人の取組はそれから。子供達の相撲は例祭日前の土日を選んで行われます。
(意富比神社オフィシャルサイトより引用)
なるほど。
季節は秋も深まり紅葉の時期、
木々もところどころ色鮮やかに装いを変えていました。
イチョウの木
参道を進んだ先に
拝殿です。
屋根の鰹木。
この本数で男神・女神を現す事もあるそうです。
鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の社に見られる。
(Wikipedia 千木・鰹木より引用)
境内社
さて、ご挨拶申し上げた後、拝殿の左手に進みますと境内社が並んでいました。
ちなみに社務所がこの左手にあるのでお守りなどが欲しい方はそちらへ。
そのまま進みますと、御神輿があります。
ここに納められている神輿はそのままご神殿なのだそうです。
神輿庫
背の高い建物の中に、神輿が二基納まっているのが見えます。向かって左に本町八坂神社の神輿。右に湊町八剱神社の神輿。通常、社殿の中に鎮まってらっしゃる神様がお祭りの際にお乗りになるのが神輿ですが、ここでは実はこの神輿自体が神社そのもので、神様は常にこの神輿にお鎮まりになっています。大きさもさることながら揉み方も珍しいこの神輿の勇姿は、七月のお祭りの際にぜひご覧下さい。
(意富比神社オフィシャルサイトより引用)
船玉神社
さらに先へ進みますと突き当たりに少し変わった形のお社が。
わかりますかね?
船玉神社
舟の形をしているんです。
舳先があるのが分かります?
大鳥神社
御祭神は日本武尊
豊受姫神社(外宮)
隣には八雲神社
天之御柱宮
常磐神社
日本武尊と徳川家康公、秀忠公を御祀りしているとのこと。
ここでとあるご婦人に声をかけられました。
栃木からお越しのようで、家康公ゆかりの場所を巡るため訪れたようです。
日光には東照宮がありますからね。
何でもTVで三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)の情報があったらしく、探してみたけど見つからない、と。
実はこの近くに「東照宮」という名称の別の場所が存在します。(後日記事にします)
もしかしたらそちらでは?
と答えたのですが、その時点では訪れる前なのでよくわかりませんでした。
スマホの地図を見せて「もう少し駅に戻った方です」とは言ったものの・・・
無事にたどり着けたかな。
自分もその後行ったので、
どうせなら一緒に行けば良かったかと思ったりもしましたが、後の祭り。失敗したなぁ。
灯明台(千葉県有形民俗文化財)
境内にはかつて灯台の役割をはたしていた灯明台があります。
船橋大神宮として親しまれている意富比神社は、昔から海上からの目印とされてきた。幕末までは、夜間に船橋沿岸を航行する船は、意富比神社境内にあった常夜灯が夜の航海の頼りでした。神社の名も「おおひ(大火)」に由来し、それが神格化して海運業者や漁民の信仰の対象となったものと考えられている。
しかし、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に、この常夜灯は社殿とともに焼失してしまった。そのため、再建を望む声が高まり、明治13年(1880)、地元の有志の寄付金によって境内の標高12mの小高い丘の上に建てられたのがこの灯明台である。かつては「浅間山灯明台」と呼ばれた。
明治13年の完成から、明治28年10月31日付官報に廃止が告示されるまで政府公認の私設灯台として、活躍した。高さは約12mで木造瓦葺の3階建。1、2階の管理人の宿舎は和風建築、3階の灯室は洋式灯台のデザインをとり入れた六角形の部屋で、和洋折衷のつくりになっている。日本で初めて石油ランプ(3基)、錫製の反射鏡(3基)を設置した灯台で、灯りの到達距離は約6マイル(9.7㎞)であった。レンズこそ備えてはいなかったものの、当時としては最新式の設備である。
日本の洋式灯台は、明治2年の観音崎灯台をはじめ、多くは官営で新設されたが、この灯台は民間の信仰による灯明が、洋式灯台に発展した数少ない例です。現存の灯明台としては最大規模で、昭和40年に、一度解体修理されている。
灯明台という明治時代の呼称がそのまま残っている点も注目されている。
(千葉県HPより引用)
まとめ
船橋駅の南側って結構ごちゃごちゃしてるんですよね。
周辺は駅の近くと言う事もあって、かなり交通量も多く賑やかな印象です。
渋滞も結構凄い。
混んでる、っていうイメージがあったので神社の中の静かな雰囲気はちょっと意外でした。
境内も広めなのに掃除が行き届いていて清々しい印象。
古代の太陽神信仰が後に天照大神信仰と結びつき、現代、そしてこれからも人々の信仰を集め続ける。
ここはおすすめです。
是非一度参詣されてはいかがでしょうか。
ということで今回は以上!
コメント