突然ですが「十三塚」ってご存知ですか?
その名の通り13の塚で構成された遺跡です。
実はなぜ作られたのか、何を意味していたのか、未だにはっきりとはわかっていません。
そしてその詳細は解明されぬまま、今やその姿を消しつつあります。
先日ひょんなことからこの十三塚の事を知りました。
柏市の藤ヶ谷地区にもあるとのことだったのですが、
完全な形で残っているものは全国的にも少なく、もはや県内においては一つだけ(!)らしい。
そんな希少なものならばと、
実際に見に行ってみました。
十三塚とは
いかにもおどろおどろしい印象を受ける名前ですが、心霊スポットやオカルト話ではありません。
お化けの類いは出てこないので悪しからず。
少なくともこの訪問記では。(^^;
と言うのも情報を探していると「心霊スポット」という話がよく出てきます。
でも後述のように埋葬施設ですら無い模様。
(日本全国にあるらしいので全てが違うとは言い切れませんが・・・)
十三塚(じゅうさんづか、Thirteen Mounds)は日本列島各地に分布する、民間信仰による土木構造物である。
一般には13基の高塚(マウンド)から構成される。また地名となっているところもある。本来は十三仏に由来するとされているが、それぞれの塚の伝承では必ずしもそうなってはおらず、数も13に限定されていない。
典型的な例の場合、親塚1基とそれ以外の子塚12基からなる。すべてが直径10メートル以下であることが多い。塚の上には板碑などなんらかの石造物が置かれることがある。埋葬施設はなく、地下施設もない。築造時期は中世である。巨大古墳と異なり歴史的価値が認められることが少なく、一部例外を除けば、開発によって姿を消しつつある。
(wikipedia 十三塚より引用)
「13」と言う数字は忌み数と呼ばれます。
嫌われる理由は主にキリスト教、あるいはその伝播に伴う文化的な広がりにあると思われますが、少なくとも十三塚が作り始められた中世においてはキリスト教の影響はさほど大きくなかったでしょうし(伝来したのは中世末期(1549年))、一般的には映画「13日の金曜日」あたりでネガティブなイメージを持つに至ったのではないでしょうか。たぶん。
今の常識やイメージで物事を推し量ると読み違うかも。
尚、イタリアや中国などでは逆に吉数とされ、悪い意味を持たない地域もあります。
日本においても十三仏信仰や十三詣りなどがあり、必ずしも昔から悪い数字では無かったように思います。
作られたのが村の入口や村境など辺鄙な場所なので、
日が暮れたらそれなりに雰囲気はあると思いますが・・・たぶんそう言うのじゃないです。
たぶん、ですけど。
ちなみに十三塚の言われとしては
- 12匹の猫と1匹の大ネズミの墓とする昔話がある。
- 昔、その地にあった寺に夜な夜な正体不明の化け物が出るようになり、住職を恐れさせた。ある日、12匹の猫を連れた旅人が寺に宿泊を求める。住職は化け物が出る事を話したが、近所に他の家もなく、旅人は猫たちと共に寺に宿を取った。その夜、現われた化け物に12匹の猫が立ち向かい、一晩死闘が続く。夜明けとともに静かになり、住職と旅人が様子を見ると、大犬ほどもあるネズミ1匹と12匹の猫の死体があった。住職は12匹の猫の塚を造って手厚く供養し、それに大ネズミの塚を加えて十三塚と呼ぶようになった。
(wikipedia 十三塚 伝承より引用)
なんてのもあるそうです。
これはこれで面白い。
(だけど全国的に作られた理由としては・・・ちと不向きかな。)
他にも大将と部下12名で十三塚だとか、諸説あるようですがどれもピンときません。
藤ヶ谷十三塚へ
R16沿いにアコーディア・ガーデン柏というゴルフ練習場があります。
その横の交差点を曲がり、進んだ一つ目の信号が入口です。
入口の看板
注意して見ないとわかりませんが、よく見ると細い道があります。
車で入るのは不可能です。停める場所が無いので。
バイクならかろうじて入れますが、2,3台がせいぜいかな。
入口付近
右が未舗装の町道
(後で見た看板で町道と知る)
梅の木が並んだ畑の横を進みます。
藤ヶ谷十三塚
コブのような盛り土が見えてきました。
到着です。
看板があります。
千葉県指定史跡
藤ヶ谷十三塚
藤ヶ谷十三塚は、中央の大きな塚の両側に小さな塚が六基ずつ、全部で十三基の塚が一直線に並び、代表的な十三塚です。
十三塚というのは、十三基の塚が並んだもので、十三仏塚、十三経塚などいろいろな呼び方があります。鎌倉時代から作られるようになり、江戸時代に特に多く作られたようです。
塚とはいっても墓ではなく、死んだ人を供養したり、祖先にたましいを祀る為のものと、言われていますが、はっきりとした目的はわかりません。
県内にも、昔は数多く残っていましたが、現在は十数カ所を残すだけとなり、特に、十三基揃っているのは珍しい例です。
昔の人々の信仰を知る上で重要な資料です。
(注意)塚の上に登らないようにしてください。
(現地看板より)
「江戸時代に特に多く作られたようです」とありますが、
貝原益軒(江戸時代の本草学者、儒学者)は「筑前国続風土記」にて曰く、
「○十三塚在所
(前略)或人日、十三塚をつく事、近古の風俗に、佛を信じて冥福を願ふ者、父母の死したる後、三日よりはじまりて、十三年忌までに法事を行ふ度毎に、塚を一つ築く。三日、一七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、百箇日、一周忌、三周忌、七年忌、十三年忌、凡十三度に十三塚をつけり。十三佛になぞらふと云。其塚の内には、佛経の文など僧にかかせて埋みしなり。此説さもあるべし。他説は用ゆべからす。」
(参考:中村学園大学・中村学園大学短期大学部 筑前國続風土記 巻之二 提要下)
このことから江戸の当時ですらその意味する所は定まらず、諸説あったことをうかがわせます。
逆に言うとそもそも”起源や目的は諸々あった”のかも知れません。
写真では分かりづらいですが(というかまったく分かりませんが(汗))、こんもりと盛られたこぶが一直線に並んでいます。
現地で見ても、一つ一つを判別するのに苦労するような高さです。風化によって削られたのでしょう。
中央の一つだけ大きい。
反対側から
周辺
十三塚の前の様子
林です。
赤い実をつけた植物が自生していました。
「アオキ」という植物だそうです。
たまに見かけますね。
葉っぱには薬効があるとされ、凍傷、火傷、創傷などに効果があると言われているそうです。
美味しそうな実ですが、核(種子)が大きくてほとんど食べる部分がない上に、青臭くて食用に向かないとか。
道の先。
かつては町道として人の行き来があったのかも知れませんが、新しく道も整備され地形も変わっているのでしょう。
今はもうほぼ獣道。
要は辻切り?
刀の試し切りなどで人を襲ったと言う、恐ろしい人斬りの方ではありません。
村や集落の境に縄で出来た蛇や注連縄を掲げ、邪気を払って魔を除ける民間信仰及びその習俗です。
道切り(みちきり)とは、村(地域)の出入り口にあたる道や辻で行われる民俗習慣のひとつ。辻切り(つじぎり)とも称される。
日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、あるいは村と村の境(サカイ)には古くから魔や疫病をはやらせる神などが出入りすると考えられ、出入り口にあたる道には魔を防いだり、追い払うために道祖神が祀られたり、注連縄(または藁で作った蛇)を張ったり草履や草鞋が供えるなどの道切り行事が行われていた。関西地方では近畿地方を中心として、村境や辻、寺社の境内などに注連縄を渡す勧請縄(かんじょうなわ)という行事が多く行われている。
なお、この行事の行われる時期については、地域によって異なるが定期的に行われるか、時により臨時に行われることがある。
(wikipedia 道切りより引用)
以前紹介した龍腹寺のすぐ横にもありました。(記事中では言及していませんが)
印西市竜腹寺近辺の辻切り
道の上に縄を渡してお札を掲げています。
佐倉市井野近辺の辻切り
こちらは藁で作った蛇を木に巻き付けているタイプ。
恐らくこう言う意味合いのものではなかったかと。
まとめ
結局のところ、
村に悪いものが入ってこないよう十三仏信仰を拠り所に、
辻切り(道切り)の一種として藤ヶ谷十三塚は作られた、という解釈がしっくり来るような気がします。
- かねてより様々な理由で塚は作られていた。
- 中世に十三仏信仰が起こり、供養塚としても作られるようになった。
- いつしか辻切りとしての性格も帯びるようになり、村境に作られるに至った。
てな感じでしょうか。
ちなみに故人を悼んで塚を作る場合、お墓でなければ埋葬物はありません。
なにも出てこなくても不思議はありません。
十三仏信仰自体は日本で作られたもので、もともとのインドや中国には無い思想だそうです。
経典に根拠を求められないが故に信仰としては弱く、塚の根拠としては曖昧なまま歴史の中に埋もれていったのではないでしょうか。
道祖神信仰や庚申信仰の方が受け入れられやすかったのかもしれません。
数年前に「モノリス大明神」なんて話がありました。
簡単に言うと単なるオブジェがいつの間にやらご神体に、って話ですが、
日本人のおおらかさというか、独特の曖昧さをもつ宗教観が十三塚を生んだのかも知れません。
つまり起源は文字通り諸説あり、意味する所も各地において諸々あると。
一つに決めようとする事自体が誤りかも知れませんね。
とうことで以上、藤ヶ谷十三塚のリポートでした。
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