千葉県の民話を探していて見つけました。
「目つぶしの絵馬」と呼ばれるものが柏市のお寺にあるそうです。
目つぶしとはちょっと穏やかじゃありませんが、そんなにおどろおどろしい話でもありません。
その絵馬があるお寺は 紅龍山 布施弁天 東海寺。
近隣では「布施の弁天さま」と呼ばれているそうで、関東三大弁天のひとつなんだとか。
さっそく本堂内に飾られているというその絵馬を見に行ってきました。
目つぶしの絵馬
ずうっと昔、布施の弁天様の近くのお百姓さんたちは、たびたび何ものかに畑をあらされてたいそう困っておりました。荒らされた翌朝、畑に行ってみるときまって馬の足跡が残っているのでした。その足跡をたどって弁天様の近くまでくると、ぷっつりと足跡がなくなっているのです。
そこで、お百姓さんたちは、何としてもその馬をつかまえて、畑を荒らすのをやめさせようと交代で、一晩中見はりをすることになりました。そしてじっと息をころして待っていました。
「もう今夜は、こねえんじゃねえのか。」
と、話しはじめたとたん、二頭の馬がどこからともなく現れて、畑を荒らしているではありませんか。かすかな月あかりの中で見えるその馬はたいそうりっぱで、毛なみの良さがだれにでも一目でわかるほどでした。
二頭の馬は、夜の明けるまで畑の作物を食い荒らし、走り回り、はね回っておりました。そして、空が白みはじめると、弁天様の方へ向かって帰りはじめました。
大ぜいで後をつけました。何回も何回もお百姓さんたちは、その馬の姿を見失いましたが、ついに弁天様のそば近くで見はっていたお百姓さんが、その不思議な光景を見てしまったのです。急に体が小さくなりはじめ、空中を走る馬の姿を・・・・・・。そしてその馬が、弁天様の本堂にかかげてある額の中に入っていくのを・・・・・・。
驚いたお百姓さんたちは、おそるおそる額の絵を見ました。するとどうでしょう、馬の体から朝つゆがにじみでているではありませんか。
それを聞いた弁天様の住職さんは、さっそく本堂にある額の絵馬がぬけ出せないようにと、その二頭の絵馬の目をぬりつぶしてしまいました。それからというものは、農作物の被害もなくなり、お百姓さんたちは、たいそう喜んだということです。
今でも、布施の弁天様の本堂には絵馬がありますが、右側にはおとなしい馬、左側には暴れ馬が描かれています。この二頭の馬に目がないのは、そのためだと言い伝えられています。
(柏市webサイト 柏のむかしばなしより引用)
こういう伝承があるものってなんかワクワクするんです、個人的には。
数百年、あるいは千年をも超える時の中には数多の人生があり、
そこに湧き出づ想像力は小さな小さな泡のよう。
やがて時代の流れが渦を巻き、一筋の脈を成して今この時へと続いている。
そこに触れた瞬間、名も知らぬ人々の想いがぱぁ〜っと広がっていくようで、
なんて言うか一言で言うと、
ロマンすなぁ〜
って感じ。
・・・・・・。(照)
ま、それはさておき、
かつてこの地域周辺には江戸幕府により設置された「小金牧」と呼ばれた馬の放牧地がありました。
それ以前からも牧場(まきば)として利用されていたらしく、古くは平安時代中期に編纂された「延喜式」にも牧の記述があるのだとか。
かつては野生の鹿や兎、猪などが駆け回るような野っ原と湿原が広がり、軍馬の飼育などにも適していたと言う事でしょうか。
そんな背景もあって生まれたお話なのかな。
布施弁天東海寺
東海寺(とうかいじ)は、千葉県柏市布施にある真言宗豊山派の寺院。山号は紅竜山。本尊は弁才天。寛永寺弁天堂(不忍池の弁天堂)、江島神社とともに関東三弁天のひとつに数えられ、地名から布施弁天とも称される。常陸川(現在の利根川)の流路にあった藺沼に突き出した地形に建てられている。
807年(大同2年)空海が嵯峨天皇の勅願により創建したという。平将門の乱の際、本尊弁財天を松の木の上に避難し難を逃れた事から、松光院とも称される。
(wikipedia 東海寺(柏市)より引用)
弁財天はもともと河川神であったことに由来して水辺に多く祀られているそうです。
そう言えば、以前訪れた白井市の「みたらしさま」も弁財天でした。
さらに、以前「でいだらぼっちの足跡」の記事の中で紹介した、
でいだらぼっちが失恋した弁天様というのは、なんとここの弁天様なんだとか。
ちなみに東海寺は布施弁天の別当寺(※)であり、もともと違う場所にあったものの、紆余曲折を経て弁天社地へ移転したらしいです。
布施弁天東海寺に到着。
広い駐車場もすぐ前にあり。
正面の楼門は千葉県指定の文化財です。
千葉県指定有形文化財(建造物):平成18年3月13日指定
楼門は、文化七年(1810)の建立で、間口3間(一階部分20尺・約6メートル)、奥行き2間(一階部分12.8尺・約3.9メートル)の二階建て、屋根は入母屋造の桟瓦葺です
一階部分は、漆喰で白く塗り固められていたと思われ、竜宮城の門のような形をしています。ただし、この部分は現在はコンクリートに変えられています。また、軒下には、竜、麒麟、亀、松、鶴といった素木造りの彫刻がはめ込まれている点も特徴です。
(現地看板より)
一階部分には東西南北それぞれ、持国天、広目天、増長天、多聞天の像が納められています。
二階部分、裏側から
楼門をくぐると本堂が見えてきます。
布施弁天 本堂
彩色が豊かでちょっと圧倒されました。
すずめもお参り
ふと見れば柱に菊の御紋が。
何故?と思ったら、
縁起として以下の記述が東海寺HPにありました。
赤い龍と天女の御像
大同2年(807年)7月7日、大雷雨とともに赤い龍が現れ手にもった土塊を捧げて島を造り、その時から島の東の山麗から夜な夜な不思議な光が射しました。ある時、天女が村人の夢に現れて、「我は、但馬の国朝来郡筒江の郷(現・兵庫県朝来郡和田山町)から参った、我を探し祭りなさい」と告げました。夢から覚めた村人が光をたどっていくとそこに三寸(約9センチメートル)ほどの尊い御像があったので、藁葺きの小祠を建てておまつりしました。弘法大師による開山
のちに弘法大師空海が関東地域に巡錫のおり、この話を聞き布施に参り「この像は、私が但馬の国で願をかけ、彫刻し奉った弁財天である」と感嘆せられました。そこで大師は寺を造り、山を紅龍山とよび、この村を天女の利益にあやかり「布施」と名付け、京に帰り親交の深い嵯峨天皇に事の次第を申し上げました。嵯峨天皇の勅願所に指定
弘仁14年(823年)に入り、その話にいたく感動された嵯峨天皇は田畑を寄付され、堂塔伽藍を建立され勅願所(天皇が天災地変や疫病流行などを祈願せしめられた寺社)に指定しました。本堂の向拝の回柱に菊の紋章があるのは、そのためです。(東海寺HP 布施弁天についてより引用)
それで菊の御紋があったわけですね。
本堂は戦火により焼失の目にあうも、享保2年(1717年)に再建され現在に至ります。
内陣の天井には、再建の為寄進した諸大名の家紋が描かれているそうです。
こちらの本堂も千葉県指定の有形文化財です。
目つぶしの絵馬
拝殿に入り、手を合わせてご挨拶。
目を上に向けると、左右それぞれに五角形の黒い木枠にはめられた、金地に黒い馬が描かれた絵が奉納されています。
おぉ、これが件の絵馬か!
と思ったのもつかの間、衝撃の事実が発覚。
なんと本堂内は撮影禁止だそうです。
残念ながら写真でお見せする事は出来ません。
ん〜ほんとに残念。
そして絵馬自体も経年により劣化しているよう見受けられました。
文字が書かれているのはわかるのですが、
薄くなったり完全に消えてしまっており、文章として読む事は出来ません。
左側は躍動感溢れる形で、右側は凛々しく立っている形でそれぞれ描かれています。
何で描かれたのかは分かりませんが、塗料が垂れて染み出しているような様子も見受けられました。
恐らくそのせいで輪郭を残し、全てが黒く塗りつぶされたような感じになってしまったのかもしれません。
また、いつ頃からそうなったのか定かではありませんが、
もしかしたらその様子が「目を塗りつぶした」という話になり、
ひいては冒頭に紹介した暴れ馬のお話を生むに至ったのではないかと思います。
・・・とか言ったら身もふたもないよね。
つまらん、お前の話は本当につまらん!(ft.キンチョーの夏)
鐘楼
こちらも県指定の有形文化財です。
鐘楼
彫刻が素晴らしい
その他
三重塔
手水舎
観音堂
境内社(大師堂、大日堂、虚空蔵菩薩、愛染明王、聖天堂など)
絵馬もたくさん
そして本堂横には、はくじゃちゃん、こうりゅうちゃん
か・ら・の〜
屋根の鬼ぃ(ど〜ん)
まとめ
帰り際、総受付に居た巫女さんに
「ひょっとして、ひょっとしてなんですけど、楼門の二階に上がらせてもらうなんて事は・・・できませんよね?」
って聞いてみたら、ダメって即答されました。orz
ま、そりゃそうか。
だって階段に「危険」としか書いてなかったからさ、「立ち入り禁止」じゃなかったからさ、聞いてみただけなんだけれども。
ということで今回は布施弁天を紹介してみました。
本堂の素晴らしさといい、興味のある方は一度訪れてみる事をお勧めします。
目つぶしの絵馬も是非実際にご覧になってください。
最後に、絵馬の馬たちが昼間の堅苦しい木枠を飛び出し、
自由奔放に夜を楽しんでいたであろう田園風景がこちら。
(布施弁天から北の利根川に向いて)
コメント