「・・・い・・よへい、おい与平!」
外から呼ぶ声がする。
正体もないまま布団から顔を出し、声の方を見やるとぼんやり障子が見えてきた。
チロチロと赤い布が揺れている。
「・・・」
や、布ではね、あれは!
一瞬の間を置き跳ね起きた与平の耳に、今度こそしっかりと声が飛び込んできた。
「おぎろ!火事だ!!」
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天保のとある日の夜半その村を突如として大火が襲った。
火元は貞吉の家だとか、かまどの火の不始末だとか後に聞いたが詳しくはわからない。
だが折悪しく山から吹いた酷く乾いた冬風は、
瞬く間に家々を赤い炎の下へと飲み込ませていったのだった。
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な〜んて話があったとか無かったとか。
いや、ないか。今私が適当に書いたので(笑
さてさて本題に入ります。
以前「火勢を止めた仁王さん」なんて話もありましたが、
なんと火事から村を救った神様がいらっしゃるらしいのです。
それも翼の生えた天馬に乗っていたというではないですか!
その蹄の跡も参道の階段に残っているのだとか。
これは是非一度見に行かねばなりません。
と言う事で千葉県は匝瑳市の愛宕神社へと向かいました。
愛宕神社の天馬伝説
愛宕神社の天馬(あたごじんじゃのてんま)
伝説の地(中央地区富谷)昔々のある時、福岡村にものすごい火事があった。風の強いことと、火元が風上であったために家々をなめるように広がり、人々はただただ、逃げまどうだけであった。
その時である。愛宕神社の扉が開かれて、中から駒に跨(また)がった白髪白衣(はくはつはくい)の神様が現われて石段を駆けおりた。
駒は、天馬と言われる翼を持った馬だった。神様は、上から十二段目の石段で止まり、燃え広がる福岡村を見渡すと、手に持っていた白い杖を振り上げ、何か呪文を唱えた。
すると天馬は、これに合わせるように、ひと声、
「ヒヒヒヒーン」
と嘶(いなな)いた。その声が、神社の森から風に乗って天に消えたその時、空は一転して曇り、カミナリがとどろいて雨が降り出した。
とどまるところを知らなかった火事は、この雨で忽(たちま)ちに消されてしまった。神様のおかげで福岡村の半分は、火事からのがれることが出来たのである。
愛宕神社の石段に今でも残るひづめの跡は、その時の天馬の足跡と伝えられている。
(匝瑳市HP 伝説とむかし話より引用)
信じるか信じないかは貴方次第です!
・・・じゃなかった、失礼。
いや、ついね、時期的に。さっき録画したのを見たもので。
でもなんかワクワクしません?
愛宕神社へ
千葉県匝瑳市八日市場ロにある神社です。
敬愛大学八日市場高等学校のすぐ裏に鎮座しています。
この鳥居前に停められると思って行きましたが、実際にみると思いのほか傾斜がついています。
結局道を登って行った先の神社裏に停めました。
愛宕様(あたごさま)と呼ばれ、火伏せの神として名高い神社なのだとか。
抑も(そもそも)愛宕神社の御祭神は天地開闢の最初に現われた神代七代の第一の神たる 国之常立神をはじめ 国狭土尊 豊斟渟尊 宇比地邇尊 須比智邇尊 大戸道尊 大苫辺尊 面足尊 惶根尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊より 天照皇大神に至る十二柱の大神たちである。
本社の御創建・勧請の年代は不詳であるが現在の社殿は江戸の後期嘉永二年(1849)六月再建になるもので、その後百参拾余年を経た今日 本殿、拝殿をはじめ風雪の痛みにたえない有様となったここにおいて区長氏子総代ら相寄り相議り現状のままに推移しては 神威を損ない畏れ多い と百二十余戸の氏子区長に諮り異を唱うる者なく衆議一決し此度の大改修工事となった。(中略)
当社はその昔、愛宕山大権現の名の如く神佛習合時代は持福寺が別当であったが明治元年、神佛分離・判然の令により、愛宕神社と改称したものである。維新後持福寺は廃寺となり、神社の宝物たる白馬に跨りし白面の武将像(里人はこれを御神体と称するが御神像と呼ぶべき美術品)はその後本寺たる福善寺に移されしものとの古老の伝えあり。今回尋ね求めたところ伝承は正しく同寺に現存していることを確認した。総代代表ら住職と折衝の結果(中略)御神像は百十余年ぶりに本社に還御されることとなり、まことにめでたき極みである。これ偏(ひとえ)に御氏子崇敬者一同の至誠の精神が、愛宕大神の御感応にあずかりしお陰と恐懼感激して記し置くものである。
(現地の改修記念碑より)
天狗だ。珍しい気がする。
愛宕山の山岳信仰と修験道が融合し、天狗信仰が盛んだった為らしい。
天馬の蹄跡
神社前のこの階段が件の石段、神様が途中まで駆け下りたという場所なのですが、
現在の階段は昭和36年に改修されたもののようです。
愛宕神社御神像乗馬の「ひづめ」跡の伝説
天保十一年二月(今から百数十年前)夜八時田町より火を出し、田町坂下全焼、本町、門前町へと延焼し、見徳寺殿堂残らず焼失。火は富谷村の境にまで達す。この時愛宕神社の御神像「勝軍地蔵菩薩」白馬にて石段を下られ、村への延焼を防護下されたと。このときの「ひづめ」の「あと」と代々伝え継がれてきました。石段改修の折、移動してこの場所に安置の措置がとられました。
この直前に行った飯高神社の石段にも同じようなものがあった・・・気がする。しかも同じノミ跡で多分同じ石材・・・。
いや、気のせいか。だってこれは蹄の跡だもの!
「出世の石段」の愛宕神社(東京都港区)
愛宕神社そして馬、とくると「出世の石段」が有名な東京都港区にある愛宕神社が思い出されます。
時は寛永11年、江戸三代将軍、家光公が将軍家の菩提寺である芝の増上寺にご参詣のお帰りに、ここ愛宕神社の下を通りました。
折しも春、愛宕山には源平の梅が満開。家光公は、その梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と命ぜられました。
しかしこの愛宕山の石段はとても急勾配。歩いてのぼり降りをするのすら、ちょっと勇気が必要なのに、馬でこの石段をのぼって梅を取ってくることなど、とてもできそうにありません。
下手すれば、よくて重傷、悪ければ命を落としそう。家臣たちは、みな一様に下を向いております。
家光公は、みるみる機嫌が悪くなり、もう少したてば、怒りバクハツ!というそのときに、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者がおりました。家光公。その者の顔に見覚えがありません。「あの者は誰だ」
近習の臣に知る者はありません。
「おそれながら」
「おう」
「あの者は四国丸亀藩の家臣で曲垣平九郎(まがき・へいくろう)と申す者でございます」
「そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれである」平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段をのぼり降りし、家光公に梅を献上いたしました。
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は一日にして全国にとどろいたと伝えられております。
(愛宕神社「出世の石段のいわれ」より)
江戸の頃の話といいますから、それがこの地に伝わって伝承となったのかもしれませんね。
本来白面の武者像は御神体ではないですし、天狗信仰や修験道にも関係ないでしょうから。
境内社・その他
まとめ
駐車場のような場所はなく、車でくるとキツいかも。
苔生した感じの古さは良いのですが、ちょっと建物の痛み具合が気になります。
また隣接して杉の巨木が立っているのですが、その枝が折れて引っかかっているようで「頭上危険」と迂回を促す看板も立っています。
参詣の際は色々と注意してください。
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