茨城県は神栖市にある息栖神社に行ってきました。
香取神宮、鹿島神宮の両宮に息栖神社を加えたものを「東国三社」と呼ぶそうです。
江戸時代には伊勢神宮参拝後に「下三宮(東国三社)参り」と称して三社を巡拝する慣習があったとも。
その三社のうち息栖神社だけは参詣していなかったのでGW中に足を運んでみました。
そのあと色々調べるにつれ「?」マークが浮かびまくりだったのでその辺をつらつら書いてみたいと思います。
全然まとまってないけど。
息栖神社
息栖(いきす)神社は、鹿島神宮(鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに東国三社と呼ばれ古くから信仰を集めてきました。関東以北の人は伊勢に参宮したのち、禊ぎの「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したといいます。
岐神(くなどのかみ)を主神とし、相殿に天鳥船神(あめのとりふねのかみ)、住吉三神を祀っています。天鳥船神(あめのとりふねかみ)は交通守護のご霊格の高い神様で、鹿島大神の御先導をつとめられた神様です。
大鳥居が常陸利根川沿いに建てられ、江戸時代は利根川の河川改修で水運が発達し『東国三社詣で』が流行しました。遊覧船も行き来し、水郷の風景を楽しむ人や文人墨客など多くの参拝者で賑わっていました。現在でも度々東国三社巡りツアーなどが行われています。
(神栖市観光協会HPより )
香取神宮、鹿島神宮はそれぞれ一宮(いちのみや)なので有名も有名。
でも息栖神社はあまり知られてないんじゃないだろうか。
「東国三社」と言う表現は聞いたことがあったけれども少なくとも自分は詳しく知らなかった。
でも参詣した感じでは意外にも(失礼?)香取神宮に負けず劣らずの神気に満ちた場所でした。
正直ちょっとびっくりした。
ま、その話はひとまず置いておくとして、
この神社は『古事記』や『日本書紀』といった古文書で語られる「国譲り神話」に由縁のある神社です。
国譲り神話とは
記紀(※1)によって若干違いがあるので大まかに要約すると、
高天原にいた天照大神は
「葦原中国を治めるのは本来私たち(天津神)じゃない?そうよね?そう思うわよね?」
と仲間の神々に相談、そして国を譲るよう大国主神(国津神)に迫ります。
せっかく作り上げて来た国をそう容易く明け渡したくないのが人情(神情?)てなもんですが、最終的には豪華な社を建てることを条件に大国主神は国を譲ることになります。
しかし最初からスムーズに事が進むはずもなく、天照大神も神々を何度も使いとして送り出すのです。
幾度かの神々派遣ののち、最終的に「経津主神(フツヌシノカミ)」と「武甕槌神(タケミカヅチノカミ)」が遣わされます。(日本書紀)
この時『古事記』では「建御雷神(たけみかづち)」に「天鳥船神(あめのとりふね)」を副えて遣わしたとあり、
この天鳥船神が息栖神社の相殿神として祀られている神様となるわけです。
天鳥船という名の通り船であるとも、先導した神であるとも言われています。
そして「経津主神」は香取神宮の主祭神として、「武甕槌神」は鹿島神宮の主祭神としてそれぞれ祀られました。
※1.『古事記』と『日本書紀』との総称
息栖神社へ
利根川の中洲にかかる小見川大橋、息栖大橋の二つを超えて千葉県から茨城県へ。
その先、細めの道へと続く十字路を左に曲がってしばらく行くと看板が見えて来ます。
右に入ると立派な鳥居が見えます。
駐車場はその手前、左右にあります。
息栖神社
息栖神社は、古くは日川に鎮座していた祠を、大同二年、右大臣藤原内麿の命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、授常陸国 正六位上 於岐都説神従五位下」の於岐都説神とは息栖神社の事とされている。(古今類聚常陸国誌・新編常陸国誌)
古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
祭神は、現在岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
江戸時代には主神を気吹戸主神と記しているものもあり(木曽名所図会、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関連を物語っていると思われる。
社殿は享保八年に建替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八年五月に新たに完成した。末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。
神栖市教育委員会
(現地看板より)
朱塗りの神門が美しい
神門は弘化4年(1847年)の造営。幸いにも火事を免れて現在に至る。
神門の裏には、かつて水上輸送船に使われていたという朽ち果てた錨が置いてある。
ふと神社の横を見ると何やら石が置いてある。
「礎石」
かつて礎石として使われていたもの。
社殿は戦後の昭和35年(1960年)に火災で焼失した。焼失した社殿は享保7年(1722年)造営で、華麗なものであったという。現在の社殿は、3年後の昭和38年(1963年)の再建のものである。鉄筋コンクリート造りで本殿・幣殿・拝殿からなる。
(wikipedia 息栖神社より)
神様のいたずら?
本殿の裏に回り込んだ時にふと感じた不思議な空気。
なんかちょっと面白かった。
香取神宮で感じたようなクリスタルくりあ〜〜〜な空間というか空気というかなんかそんなのを感じるとともに、
ちょっといたずらっぽい雰囲気が流れ込んで来た。(気がした)
突然でうまく撮れなかったが、小さな緑色のミノムシのようなものが中央に浮いているのがわかるだろうか。
これが(なぜか)目の前をふわふわと平行移動していた。
ただし超自然的な力で宙に浮いているわけではないと思う。
おそらく木の枝から蜘蛛の糸のようなものでぶら下がっていたのかな?すぐ上に木の枝なんかはなかったけれど。
でも風かなんかで糸がたわめばそういうことも起きるだろう。
目の前の光景に思わず笑みを浮かべながら本殿左手に回り込むと、
今度は数cm程度の大きさでふわふわとした白い毛玉のようなものが自分の周りを踊るように舞い、玉垣の中へと吸い込まれていった。
さすがに自分のまわりを一周もされるとうまく説明できないが、なぜだか愉快な気持ちになったことを覚えている。
さすがに写真に収める時間はなかった。
もちろんこれらは決して超常現象的なものではない。
あくまでも自然現象なのだろうと思うのだが、事象そのもののことではなく、それらを見せている意図のようなものが感じられた不思議な出来事だった。
稲荷神社とねこ
日本三霊泉の一つ 忍潮井
神社正面に見える鳥居は二の鳥居。
一の鳥居は利根川に面した場所に建っています。
忍潮井は男瓶・女瓶と呼ばれる二つの井戸であり神功皇后の三年(一九四年)に造られたものと云われあたり一面海面におおわれていた頃真水淡水の水脈を発見しこれを噴出させ住民の生活の水としたもので海水をおしのけて清水が湧出しているところから、忍潮井の名が付けられたと伝えられている。水と人類とのかかわりの中で最も古いかたちの井戸であり日本三霊泉の一つと云われております。
「形状」 男瓶は径二米弱、白御影石で銚子の形をしている。女瓶はやや小振りで土器の形をしている。
「三霊泉」 常陸の忍潮井・伊勢の明星井・伏見の直井
「伝説」 その昔(平城天皇の御宇大同二年四月(八〇九年)数キロ下流の日川地区より息栖神社が此の地に移された際とり残されてしまった男・女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を溯ぼり一の鳥居の下にヒタリ据え付いたと云う此の地に定着して後もときどき日川を恋しがり二つの瓶は泣いたと云われている。日川地区には瓶の泣き声をそのままの「ボウボウ川」と瓶との別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されている。
(現地説明碑より)
こちらは女瓶。
鳥居の下には瓶が埋められています。その中から清水が湧いているのだとか。
水中の様子も見れます。
結構大きめの魚が優雅に泳いでいました。
実は井戸が御神体ではない?
色々と情報を見ていく中で「井戸が御神体」という表現をよく目にしました。
が、これ本当なんでしょうか。もしかしたら勘違い?
「御神木」という表現があるので「御神井」という言い方はできるかもしれませんが、
主神や相殿神の御神体として祀られているものではない気がします。(たぶん)
ただしwikipediaにある
神体(しんたい)とは神道で神が宿るとされる物体で、礼拝の対象となる。(中略)その他、神道における「世界観の世として」の神代(かみしろ)や古神道の神奈備(かんなび)や皇室神道の神器(じんぎ)や古代からある神殿や神社神道の社(やしろ)や注連縄の飾られる場所やものなど、いわゆる御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)といわれる神の宿る、降りる(鎮座する・隠れ住まう・居る)場所や物も神体という。
(wikipedia 神体)
という説明から見れば、
日川からの移転に際し寂しくて泣いたという話や、後に自力でついてきたという伝説から神霊の宿る”ご神体”とは言えるのかもしれません。
(ちょっとかわいい)
また、息栖神社パンフレットのPDFにおいて
久那戸神「岐神」は、路の神であり厄除招福の神であり、井戸の神でもあります。
との一文があるのですが、井戸の神という性格があるのかはちょっとよくわかりません。
仮にそうだとすると忍潮井の伝説との整合性がとれなくなります。(伝説に整合性を求めても意味ないか)
観光協会のHPにも同様の説明があるのは確認していますが・・・本当のところどうなんでしょう。
実は本当に主祭神の御神体で、移転の際にお屋敷(社殿)だけ移されてしまい、
忘れて置いて行かれたのを悲しんで泣いていたのだとしたらちょっと萌えるんですけどね。(笑
(※あくまでも私見です。確認すべく社務所に電話しましたが連絡がつきませんでした。正しい情報をお持ちの方がいらっしゃったら教えてください)
ご祭神の謎 〜岐神(久那戸神)〜
さて、息栖神社の相殿神は天鳥船神(あめのとりふねのみこと)、住吉三神です。
前述したように天鳥船命は、武甕槌神の副神として葦原中国平定に赴いたとされる船(の神様)です。
しかし息栖神社の主祭神は久那戸神(くなどのかみ、岐神)。
ちょっと調べてみました。
岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)、とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。 日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
(wikipedia 岐の神より)
でもなぜ「経津主神」や「武甕槌神」に並ぶ「天鳥船命」が主祭神ではないのでしょうか。
それどころか調べていくうちにわかったことは、なんと「岐神」は国譲りを迫られた国津神側の神様だったというではないですか。
なのに天津神の経津主神や武甕槌神を先導したというからますます混乱。
つまり息栖神社には葦原中国を治めていて後に国を譲らされた国津神側の神と、国譲りを迫った天津神側の神が並び祀られていることになるのです。
ちょっと不思議じゃないですか?
葦原中国平定の神話
そもそもこの国譲りの神話自体、大昔に元々住んでいた人々と後から入ってきた人々との争いを語ったものだと聞いたことがあります。
国を譲れと迫って来た天津神になぜ国津神の「岐神」が案内などするのでしょう。
その答えは『日本書紀』にありました。
国譲りを決めた大国主神が岐神に彼らを先導するよう命じるのです。
岐神は出雲族の祖神という話もあります。
そういったものを利用することは平定を進めていくのに有利だと考えられたのでしょう。
また、一定の権力(あるいは象徴)を被占領国側に残すことで余計な軋轢を生じないよう取り計らったのかもしれません。
古代における占領下政策の知恵なのでしょうか。
結果、国津神であった「岐神」が武甕槌神の副神「天鳥船神」とともに並び祀られることになったのかもしれません。
(でも江戸時代以前の祭神は「気吹戸主神」と言う話もあるから・・・意味のない推論かな)
レイラインって何?
もう一つ余計な話を。
何か遺跡的なものを線でつなぎ、直線や幾何学模様が浮かぶものを「レイライン(ley line)」というらしい。
香取神宮、鹿島神宮、息栖神社、
この三社を線で結ぶと「直角三角形になる!!不思議!!」
・・・とか言う人が(結構)いるようですが、
ちょっと冷めたこと言っていいですか?毒吐いてよかですか?
(ちょっとだけね)
思うにそう言う人たちって、
もし位置がずれて「正三角形」に近くなっていたら
「線で結ぶと正三角形!不思議!」とか言ってると思います。
あるいは「二等辺三角形!不思議!」とかね。
とりあえず落ち着きましょ(汗
そもそも直角三角形だったとしたら何だというのでしょうか?
よくわかりません。
これがより複雑かつ完璧な配置で何らかの意図を感じる図形とかならわかります。完璧な五角形(五芒星)!とか。
じゃなくて3点を結ぶならそりゃ何かの三角形になるでしょうよ。
しかも現在の息栖神社は創建当初の日川という場所から移転されたものと伝わっています。
その上、正確にいうと直角にはならないらしいのでその”特別”な直角三角形にするべく移した、という話にもなりえません。
さらにさらに「諏訪大社からみて真東にある!」の諏訪大社が信濃國一之宮の諏訪大社であるなら厳密には真東ではありません。(但しどの程度まで誤差を許容するかで表現は変わってきますケド)
ロマンは良い。でもあんまりこじつけるのは・・・。美しくない。
(/毒吐き終わり)
まとめ
GWを利用してちょっと千葉から飛び出してみました。
飛び出した、と言うほどでもありませんが。(^^;
息栖神社の社殿なんかはコンクリート製ということもあって雰囲気こそ新しめですが、
神奈備(かんなび)とも言うべき神気に満ちた土地と空間は素晴らしいものでした。
興味のある方は是非「東国三社巡り」に出かけてみてはいかがでしょうか。
ということで今回は以上!
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