石が泣く
その名も「夜泣き石」
古来より日本人は山や巨石といった自然の中に霊性を見出し、崇敬してきた歴史があります。
富士山は言わずもがな。
千葉県内において巨石と言えば三石山観音(君津市)を思い出しますが、
巨石のみならず全国には様々な石が多くの伝説とともに残されています。
夜泣き石と呼ばれるものもその一つ。
日本各地の夜泣き石伝説
wikipediaによれば
夜泣き石(よなきいし)は、石にまつわる日本の伝説の一つ。各地にさまざまな夜泣き石が存在する。
大別すると、泣き声がする、子どもの夜泣きが収まるとの伝説に分かれる。中でも静岡県の小夜の中山夜泣き石がよく知られているが、日本各地に存在する夜泣き石の中には、小夜の中山のように殺された者の霊が乗り移って泣き声をあげるといわれるほか、石自体が怪音を出すといわれるものも多い。
(夜泣き石より)
石が泣くぐらいだから多くは悲しい伝説とともに伝えられているようです。
ちなみに石自体が怪音を出す、と言えば飯岡の方にも「天の石笛」と呼ばれる民話・伝承があるらしい。
こちらは悲しいというよりは不思議なお話。
実際にその石笛が奉納されている神社もあるとのことで、ぜひ訪れて見たいと思っているのだけれどその話はまた今度。
今日は市川市の里見公園内にある夜泣き石を見に行きます。
里見公園へ
里見公園は市川市国府台にある市立公園。
江戸川に面した台地の上にあります。
着いたのが夕方だったからか、カラスの数が尋常じゃない。
鳴き声はもちろん、前へ進もうとすると先にいるカラスが5、6羽飛び去り、ビビりながら進む感じでちょっと怖い。
小さな池と橋を発見。影になって見えないけれど小さな滝もありました。
というか虫がすごい。
蚊なのかなんなのか耳元でブンブン言ってる。
来る時間を間違えたか。
足早に遺跡を探す。
明戸古墳石棺
明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長四十mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から六世紀後葉に造られたことがわかります。二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ヶ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七年(1836)に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝え云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同性長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎および正木内膳の墓とするは何も誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって十九世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
(現地案内板より)
また、市川市のHPによれば、
市川市の文化財に指定されているこの2つの石棺は公園裏山内にあり、文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。板のような緑泥片岩製の組み合わせ式箱型石棺で蓋石は見られませんが古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)この地方に勢力をふるっていた豪族の墓と推定されます。この地方に箱型石棺があるのは極めて珍しいといわれています。
(市川市HPより)
とあります。
つまり古墳時代後期(6世紀後半~7世紀初頭)に造られた古墳が、
数百年後の文明11(1479)年、太田道灌による築城に伴い露出。
その85年後、永禄七年(1564)に里見弘次が戦死。
後世、弘次の墓と語られしも
江戸時代の天保七年(1836)には「そうでもなかろう」と冷静に見る向きもあった、ということかな。
櫃の中より甲冑や陣太鼓が出たともあるけど、古墳を墓としての再利用するなど例があるのだろうか。
ましてや石棺を発見してから100年も経たずして、ねぇ。
いくら上代の(大昔の)墓とて他人様の墓に入りたくないよね。(^^;
時代の流れの中でいくつかの話が混同され伝わったのかな。恐らくは。
国府台の夜泣き石
国府台の夜泣き石伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ十二、三歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録には、里見弘次は永禄七年(1564)の合戦のとき十五歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
(現地案内板より)
北条と里見の間では天文七年(1538)と永禄七年(1564)の二度「国府台合戦」がありました。
この辺りが主戦場となったのは現地案内板にもあるように永禄(1564)の時で、攻めくる北条軍を撃退したことに気を良くした里見方は夜に酒宴を催します。
ところがその酒宴の最中に北条軍に急襲され潰走。
主将の里見義弘も馬を射られ、部下の替え馬にまたがって脱出したくらいで里見方の惨敗であったとか。
この時の討死には五千余人とも言われ、天下分け目の決戦と言われる関ヶ原でも約八千と言うからいかに凄惨であったかを物語ります。
(参考:千葉県史跡と伝説(荒川法勝編),1990,暁印書館,p117-118)
もしかすると里見弘次ではなかったかもしれないが、この時命を落とした何某かの娘が泣く姿を里人が目にしたこともあったろうか。
ひいてはいつしか夜泣き石という悲話が語られるようになったに違いない。
・・・と思いきやまた別の資料を発見。
江戸時代の国学者、宮負定雄によって弘化二年(1845)に著された『下総名勝図絵』においても「夜泣き石」の記述がある。
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第8巻 紀行及日記 内 下総名勝図絵 コマ54
一つ前の項に古戦場として前述の国府台合戦について記されており、
「落城」とは永禄の戦いを指すと思われるが、
そもそも「夜泣き石」は戦の後ではなくその前(もしくはその最中)に泣いた、と言うのが面白い。
ここでは戦場跡を訪れて息を引き取ったという姫の話は出てこない。
そうなると悲しみのうちに息を引き取った哀れな娘の話ではなく、単に石の怪異に関する話になる。
それはそれでものすごく興味深いのだけれど。
そして石は思ったより小さい。もたれて泣くには・・・
下の板石は明戸古墳石棺の蓋だったもの。
正直その辺に転がっている石の方が大きかったり苔むしていたり・・・それっぽい気もするのだが。(^^;
夜泣き石の傍らには戦死した里見弘次ならびに里見軍将士亡霊の碑が建っている
その他 里見公園内
羅漢の井
「羅漢の井」と書かれた案内板を発見。
導かれるままに行ってみる。
紫烟草舎(しえんそうしゃ)
「からたちの花」、「砂山」などの詩で親しまれている詩人北原白秋(明治18年~昭和17年)が大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあったこの離れで優れた作品の創作を続け、白秋自身で紫烟草舎と名づけました。復元の地をここに求めたのは、小岩に移り住む前、白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも江戸川越しにこの台地を眺めたであろうこと、そして葛飾の野をこよなく愛していたことによります。
(市川市HPより)
噴水広場 バラ園
芝生広場と藤棚
まとめ
国府台城、そして古戦場であった歴史をうかがい知ることができました。
公園内には「お花見広場」という火気使用可能区域もあり、バーベキューなども楽しめそうです。
にしてもあのカラスの量には引きましたが・・・。
♦ ♦ ♦
夜泣き石は隣接している総寧寺に置かれた時もあったようですが、今は現在の場所に移されています。
どちらかというと二つ並んでぽっかりと蓋が開いている明戸古墳石棺の方が印象は強かった。
江戸川のすぐ横なので釣りなども楽しめるようです。
ふらっと遊びにいくにはいい場所かもしれません。
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