側高神社|其の神名秘して知る者なし乃ち「側高大神」と曰ふ

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香取市(旧佐原市)大倉という地にちょっと不思議な神社があります。
その名は側高神社

下総國一宮の香取神宮、その第一の摂社にして利根川下流域に点在する「そばたか神社」(脇鷹、蘇羽鷹など字は様々)の本社だという。

ところがそのご祭神は かつて神秘とされ、知るものはなかった といいます。

これが廃れてしまったお社ならまぁ想像もできますが、
実際は香取神宮との関係深く、祭例においても重要な役割を担った篤く尊崇される神社なのです。

仏教寺院で本尊を秘仏とする話はよく耳にしますが、
本尊の名前がわからないということはまずないでしょう。

不思議です。一体どんな神社なんでしょうか。

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側高神社 御祭神不詳の謎

江戸後期の天保四年(1833)に書かれた『香取志』に御祭神についての記述が見られます。

祭る神古へより秘して云わず…(後略)

(大学共同利用機関法人 国文学研究資料館 『香取志』 コマ10より)

そして明治33年(1900年だから100年以上前)に著された『香取郡志』ではそれを参考にこう書かれています。

香取郡志

大倉村字側高に在り 縣道に沿ひし山頂に鎮座す 域内五百四坪 往古或いは脇鷹神社と称す 天日鷲命を祀る祭日一月十日 社傳に曰く神武天皇紀元十八年の創建なりと 本社の祭神は往古神秘として其神名を知るものなく或いは曰く伊弉諾尊 天照大神 神功皇后を祀る又曰く高皇産霊尊を祀ると 後定めて今の祭神とす 香取神宮の摂社となり神宮と共に武家の改造を同ふし慶長元禄兩度徳川の造営あり 明治の初め郷社に列す 社祭の古式に白状祭及び撫髭祭と称するあり 社地は森然たる高丘にして北に利根の碧流を瞰し秀麗の気凛として人に迫るを覚ゆ

(国立国会図書館デジタルコレクション – 香取郡誌 コマ71-72より)

其神名を知るものなく或いは…と神々の名が続くわけですが、実際のところはどうだったのでしょう。
単に御祭神の名が忘れられ、のちに御祭神が代わった、或いは合祀された、或いは解釈を変えて祭神を変更したなど可能性はいくらでもあるように思えます。
それともなにか特別な理由があって神秘とされたのでしょうか。

調べていくうちにますます面白くなってきます。

というのもこの”側高の神”にはある伝説が語られているのです。

側高神の捉え馬伝説

『香取志』及び『香取郡志』によれば

香取大神の命により、側高神は陸奥国(今の東北地方辺り)にて牡牝馬二千を捕らえて連れ帰ります。常陸国(今の茨城県)霞浦の浮島まで辿り着いた時、陸奥国の神がこれを惜しみ、追い留めんと背後にせまるのです。
そこで側高神は「干珠」を取り出すと潮を干さしめ下総國に至ります。(今この場所を馬渡という)
陸奥国の神も渡ろうとしますが、次に「満珠」を取り出すと瞬く間に潮が満ち渡ることができませんでした。こうして香取の境にまで至り、遂に馬を牧野の牧に放したのです。
(筆者要約)

尚、追ってきた陸奥国神は満ちた潮によって帰ることができずその場に留まり、
のちに里人によって「追手明神(追島明神)」として祀られたとあります。(その地を「玉落」という。玉(神)が落ちた地ということでしょうか)
その祠は側高神社をまっすぐ見据えるように建っていると記されています。

現在はかつての島も干拓によって地続きとなり、稲敷市浮島として地名は残りますが
残念ながら「追手明神(追島明神)」という神社は確認できません。

しかしほかにもこの伝説にちなんで「釜塚」「笠塚」などの地名が残っていると言います。

そしてなんと伝説に登場する宝珠が香取神宮の神宝に数えられているのです。

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香取神宮の神宝にある干満兩顆(干珠・満珠)

香取志 下巻 神寳(宝)の項において

干満兩顆

側高ノ神干珠・満珠を出し賜ふ事既に祭祀の條に出せり。此兩顆も亦同しく正殿の内陣に納めて拝見を許さず

(大学共同利用機関法人 国文学研究資料館 『香取志』 コマ61より)

「既に祭祀のくだりに出した」というのは前述の捕馬伝説。(祭祀「白状祭」については後述)

「拝見を許さず」というのはとても重要な宝珠であるから神秘として人目に晒さず、
さらにそれに関わる側高神をも秘匿した、ということなのでしょうか。

ん〜なんかしっくりこない。
そもそも公開していない神宝などたくさんあるでしょうし・・・。

伝説による地名まで残るのに側高の神の名だけが忘れ去られたとは考えにくい。
ボスの経津主神(香取神宮の祭神)の命を奉じ手柄をあげたにも関わらず、その名を秘匿しなければならない理由などあるのでしょうか。

白状祭

この祭りは側高祭り、堀祭り、橋祭りなど一連の祭りのなかで行われたものの一つで、津宮村(現在の香取市津宮)にある忍男(おしお)神社にて行われていたものだといいます。
祭礼の簡略化に伴い明治17年(1884)頃を最後に現在は行われていないようです。

その内容は前述の側高神が陸奥国より馬を捉えてきたという伝説にならい、
馬泥棒に見立てた神職の一人を捕らえ、その由を白状に載せて裁くという形式をとった神事であったようです。

ここで面白いと思ったのはその視点。
普通ならばこのような話は勝者の側から見た武勇伝、誇るべき戦利品として語り継がれるべきものです。
ところがこの神事の構図から考えるにそうでないことは明らかです。
つまりその根底にはある種の”後ろめたさ”があるように感じられるのです。

ひょっとして他国から馬を捕えて(盗んで)きたのことへの報復を恐れ、素性を伏せたとか?

あるいはもともと武勇伝や戦利品だったものの、
後の世において解釈が変わり、他聞を憚る話へと変化した結果なのかもしれません。

ん〜これもまた考えすぎでしょうか。

ちなみに似たような神事が春日大社の行事でも行われていたという話があります。
これは春日大社の神が鹿島神宮より分霊し遷され、香取神(経津主神)もまた祀られていることを鑑みるに、関係の深い側高神の伝承をも伝わり、その形式を保ちつつローカライズされたと考えるのが自然だと思います。

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髭撫祭り

側高神社に伝わる「髭撫祭り」という奇祭についても紹介しておきます。
市の無形民俗文化財だそうです。

髭撫祭由緒

毎年一月第二日曜日に行われる髭撫祭は今から七百六十余年以前の建保二年(鎌倉時代)に始められたと伝えられ、大倉村中の氏子を氏族別に十八組に分け、十八当番の各組が毎年交互に二組づつ祭当番・請当番として奉仕するしきたりで祭当番引き継ぎの行事として執り行われる。当日神前に注連縄を張り、鶴亀遊ぶ蓬莱山を飾り両当番は西と東に分かれて酒豪を競う。紋付羽織袴という礼装に威儀を正し荒筵の上に着座し二人づつ交互に出て七引き合いのの杯事を行い初献より七献目(満献)まで一杯・三・五・七・七・五・一杯と定められている。しかし興至れば定められた杯数を超え髭を撫で、相手側に酒をすすめる。髭を撫でると定まった杯数に一杯新たに加わるのである。(請当番が髭を撫でると逆撫でといって三杯の追加となる)旧記にも強いて三杯飲ましむる例なりーと見え俗に「ひげなでさんばい」とも言われる所以である。思うにひげをなでるこのあたりがこの祭典の妙味であり、神の感応を示す絶頂点である。見事に飲み干すた度に勇者をほめはやすときの声が新年早々の側高山に湧き上がり、今尚昔ながらの手振り床しく五穀豊穣、子孫繁栄を祈念して引き継がれているのである。

(現地看板より)

側高神社(そばたかじんじゃ)

利根川沿いの国道356号線。
そこを銚子方面へまったりと流していると、
香取駅を過ぎたあたりで「側高神社入り口」との看板が見えてきます。

脇道に逸れるように曲がり、踏切を越えた先の坂を登っていくと今回の目的地です。

駐車場

駐車場らしきものは見当たりませんが「P(パーキング)」マークがあります。
ということはこの路肩スペースが駐車場の役割を果たしているのかな。

社号標と入り口
社号標

神社へと続く道を進みます
参道

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階段の先に鳥居が見えてきました
鳥居

手水舎
手水舎

さらに登る階段の先に神社
神社

登りきった先にいたのは狛犬
狛犬

その後ろの見えるのは御神木「千年杉」
御神木「千年杉」

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四箇の甕(四季の甕)

石段脇、狛犬の前に4つの甕が埋められています。

四箇の甕(四季の甕)
四箇の甕(四季の甕)

四箇の甕の由来

此の四箇の甕を、俗に「四季の甕」と言う。石段の側から 春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕、と称して夫々の甕の水量が、四季折々の降水量を示すとも言われる。自然に溜まった雨水の量を以って占いの基礎としたものであろう。
神験に依って、その年の豊凶や、生活の吉凶を知ろうとした古人の純朴な信仰が偲ばれる。

昭和六拾参年参月拾参日
四季の甕・玉垣の奉納者(氏名略)

(現地看板より)

先日訪れた息栖神社の忍潮井(おしおい)を思い出しました。
一の鳥居の両脇には古い甕(男瓶・女瓶)が埋められており、そこから清水が湧き出していると言います。

【東国三社】息栖神社 天界の神船が泊まる津
茨城県は神栖市にある息栖神社に行ってきました。香取神宮、鹿島神宮の両宮に息栖神社を加えたものを「東国三社」と呼ぶそうです。江戸時代には伊勢神宮参拝後に「下三宮(東国三社)参り」と称して三社を巡拝する慣習があったとも。その三社のうち息栖神社だ...

何か関連があるのでしょうか。

ただ古い文献にあたってもこの甕に関する情報は特に出てきません。
看板にも「昭和63年」という日付が入り且つ奉納者の名前があることから比較的新しいもののようです。
またその年に本殿と拝殿の修繕工事がなされたようですが、
その際に新たに奉納されたのか、壊れていたものが新調されたのかは不明です。

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側高神社 社殿

創建は香取神宮と同じ神武天皇18年だという。

側高神社 拝殿
側高神社 拝殿
社殿は真南を向いて建てられており、参道の石畳は斜めに敷かれています。
正中を外したのか単に敷地の都合からなのか。

向拝の彫刻
向拝の彫刻

側高神社 本殿
側高神社 本殿

千葉県指定有形文化財
側高神社本殿 一棟

本殿は一間社流造、屋根は現在銅板葺であるが、もとは茅葺。母屋正面及び側面は切目縁、はね高欄。組物は連三斗、軒は二十重垂木である。向拝部分の彩色文様や蟇股内部の彫刻には桃山建築様式の特色が見られる。

神社本社の造替修理との関係や建築様式から、慶長年間に畿内出身の名工に学んだ工匠の手になる地方色の強い建築物として貴重である。また、この地は古く香取郡と海上郡の郡界の地であり、香取神宮第一の摂社が鎮座していることは歴史的にも重要である。

(現地看板より)

本殿まわりに石祠がちらほら
石祠

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毘沙門天と夫婦杉

側高神社の別当寺 天台宗「千手院観音」の守護神だそうです
毘沙門天
毘沙門天

その奥には樹齢500年という夫婦杉
夫婦杉

まとめ

結局のところ、なぜ神秘とされたのかその真相はわかりません。
浅薄に推論を重ねたとて、答えにたどり着けるとも思えません。

でも・・・なんか好き。こういう話。 (*´ェ`*)

息栖神社の「忍潮井[おしおい]」と「忍男神社[おしおじんじゃ]」の関連性も気になります。

ちなみに香取神宮、鹿島神宮、息栖神社のことを「東国三社」と呼ぶことがあります。

葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の折、武甕槌神(鹿島神)や経津主神(香取神)をボスとして、
副神として赴いたとされる船の神が天鳥船命。そして平定を先導したという岐神(久那戸神)。
この二柱は息栖神社の御祭神として祀られています。

鹿島神宮との関係深く重要な摂社である息栖神社、香取神宮との関係深く第一の摂社である側高神社。

対をなすようにあるはずの側高の神だけが、ピントがボケたように不明瞭なままなのです。

    ♦    ♦    ♦

・・・とまぁここまで書いておいて何ですが、
実は一般的に知らせないだけで本当はわかってるのかもしれないけどね。関係者には。(笑

ツーリングの際に356号線を走ることがあれば、ぜひ立ち寄ってみてください。
静かでいい場所ですよ。
野山

ということで今回は以上!

コメント

  1. 天日鷲 より:

    フツヌシは忌部系図の中の由布津主命であり、武雷槌命は兄弟の武羽槌、天羽雷でしょう。
    由布津主命、武羽槌命はこの地の開拓神です。

    おそらく側高神社の祭神は天日鷲でしょう。

    藤原不比等の子、房前は忌部宗家からの養子だという資料が見つかりました。
    複数の研究者が確認しています。

    中臣氏は忌部の分家ではないかと。
    だから祖神である天日鷲を隠した。

    • watary watary より:

      すごい!そういう背景があるのですね。全然詳しくないのでそういったお話はとても勉強になります。ありがとうございます!

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