幽霊は存在するのか。
幽霊を見たってどういうこと?霊能力?第六感?
そのあたりを個人的な経験を踏まえて考察してみたい。
何故かって?
昨日TVでやってた心霊番組をみたから。
影響されやすい人間なのです、昔から。(笑
お盆だし。
ちなみにこれからくだらない話がダラダラと続きますが、
戯れ言なのであしからず。
自分が見た幽霊たち
自分はいわゆる「幽霊」を信じません。
でも「自分が見た幽霊たち」って見出しに書いてあるじゃん!
と思った方、その通りなのですがまずは話を聞いてほしい。
これは自分自身で実際に体験したことなのですが・・・
1、夜道に立つ白いワンピースを着た女性
数年前のとある夏の日の夜でした。
日付も変わろうかという時間に風呂に入った私は熱くなった体を冷ますのに飲み物が欲しくなったのです。そこですぐ近くのスーパーにある自販機へとジュースを買いに出ました。
スポーツドリンクを1本買い、手のひらから伝わる心地よい冷たさを感じながら家の方へと歩き出しました。
そして十字路に差し掛かった時、奥へと続く道の真ん中に誰かが立っているのを見たのです。
それは一人の女性でした。
白いワンピースに黒い髪。
顔は見えませんでしたが何か違和感を感じたのを覚えています。
「奥のアパートの人かな?」
そう思いながら道を渡ろうと左右の安全を確認、再び目を前に向けるとその女性は忽然と姿を消していたのです。
しかも一瞬ともいうべき時間で、です。
「?」
確かに、確かにこちらを向いていたんです、その人は。
だから歩いていたとしたらこちらに向かっていたはず。
奥の暗がりへと去って行ったわけではないはずなんです。
それどころかよくよく思い出してみるとその女性はただ立って居ただけのように思えます。
すこし俯いて、足を肩幅に開き、手をだらりと下にさげ、道の真ん中で、体をこちらに向けて、ただそこに立って居たんです。
そして何より不思議なことは、
目の悪い僕には眼鏡なしにその距離でその女性の様子が細かに見えるはずがないのです。
はっきりと見えた白い服の様子や俯いて顔にかかった髪など、その距離では絶対に!
それに気づいた瞬間感じた背後の気配・・・
ということは特にありませんでしたけど。
オチはありません。すいません。(^^;
ただ暗がりに女性が見え、一瞬で消えたというだけの話です。
解説はまた後ほど。
2、壁際の空間から覗き込むおじさん
これまた夜中、1時を少し過ぎていた頃でしょうか。
iMacで作業をしていた時のことです。iMacは壁を背にして置いてあります。
突然モニターの上、天井から60cmくらいの壁際、
視界のちょうど上限あたりの空間から突如としておじさんが覗き込んできたのが見えたのです。
多分60歳まではいかない、50台中盤くらいだったと思います。(微妙な若さが感じられたのが印象的でした)
少し薄くなった頭、胸の前で腕を組み、組んでいる位置が高いので肩をすくめたような特徴的な格好でぐいっと覗き込んで来たのが見えました。
あまりに突然のこととあり得ない状況に心臓の鼓動は跳ね上がりましたが、その時はただただ冷静を装いモニターを凝視し続けることしかできませんでした。
そして次の瞬間にはもう忽然と姿を消していたのです。
あの生気のない顔色と、空間が歪んでいたとしか思えない、説明のつかない状況に混乱するばかりでした。
実際の寸法で言えば壁から10cm、天井から60cmくらいの空間になぜか入るはずのない大きさの人が現れ、ありえない光景が展開されたのですから。
これまた特にオチはありません。
その後おじさんを見たこともありません。
怖いというよりびっくりした経験でした。
幽霊の定義、そして考察
幽霊とは?
まぁ言うまでも無く、亡くなった人の魂的な霊的な何かが姿を表したもの、ということになりそうですがwikipediaを見ても、
死んだ者が成仏できず姿を現したもの
死者の霊が現れたもの(wikipedia 幽霊より)
とあります。
まぁ大体そう言う理解で問題ないかと思います。
さて、
前項においては少し物語風に書いてみましたが、実際はもっと冷静に観察していたのでした。
その時にある意味「幽霊を見た」ということの意味がわかったような気がしたのです。
ちなみに霊能力と呼ばれるような特殊能力(?)は残念ながら持ち合わせておりません。
意識という機能(システム)
最初にまず、自分がどのように意識をとらえているかと言うことについて軽く触れておきたいと思います。
我々は普段「意識」を意識しません。
何故なら「意識」は意識している自分の思考、マインドそのものだから。
意識を意識する必要がそもそもないのですから至極当然のことです。
ですがそれ故に「意識」に騙されることがあるのではないかと考えています。
私は意識が司令塔的存在だとは思っていません。
これは多くの学者さんが指摘するところ。
一例を挙げれば(ちょっと古い書籍ですが)、
普通われわれは、怖いと感じるから、その結果、身体が硬直したり心臓がドキドキしたりする、と考えている。しかしダマシオの考える順番は正反対で、怖いものを見て身体的変化が生じる(身体が硬直する※)から「そのあとに」怖さを感じるのだ。この順番を正しく認識しておくことが、本書を理解する上できわめて重要だ。ダマシオは、つねに生物進化という現実を前提に議論を進める。進化的に見れば、生物が最初に身につけたのは情動であって感情ではない。情動やそれに似た反応は単純な動物にも見られるが、感情はそうではない。
(『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ 』(アントニオ・R・ダマシオ著,田中 三彦訳,ダイヤモンド社,2005,p5)より(※)は筆者追記)
以前ツーリングに出かけた際、突然の道路陥没箇所に体が硬直、無事通り過ぎてから感情が湧いてくる(のを認識する)という経験をしました。
なのでこの話は自分自身の体験から理解できると考えています。
またマイケル・ガッツァニーガ (Michael Gazzaniga) によって行われた分離脳患者に対する実験で、分離脳の患者は時々自らの行動に対する合理的な説明として、作話を行うこともあることが示されています。
実験の対象となる患者の片側に回り込み、こっそりと耳元で「歩いて」とオーダーを出すと患者は歩きだします。
今度は反対側に回り込んで「なぜ歩いたのか」と問うと「喉が渇いたからコーラを買いに行くんです」と答えたのだそうです。
左右の脳をつなぐ脳梁が物理的に切断されている(分離脳)患者には、片側の脳だけにもたらされたオーダー(情報)をもう片方の脳に伝える手段がないのです。
被験者の目線の先に自販機などがあり、その視覚情報から動機を後付けで作り出したのではないか。
不思議ですよね。辻褄をあわせるのです、自分が歩いているという状態を説明するために。たとえ無理があったとしても。何故ならそれが「意識」の役目なのだから。
また、分離脳患者についてではありませんが、これに似た話がいくつか『脳のなかの幽霊』(V.S.ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー著、山下篤子訳,角川書店)第7章で否認や合理化の例として紹介されています。
ちょっとした実験
たわごとついでにちょっと遊んでみましょうか。
雑念について。人は無心になれるのか
禅の修行を始めようと言うわけではありませんが、今ちょっとだけトライしてみてください。
たったの10秒間だけでいい、何も考えない時間を作ってみていただきたい。
できるでしょうか。
さらっと白状してしまえば私にはできません。
わずか1秒後には何かしらの考えが浮かび上がってきてしまう。
とても無心などにはなれないし、たぶんあなたもそうでしょう。
言い換えれば雑念は常に湧き上がってくるということです。自分の意思とは関係なく。
視覚的な情報の処理について
目を閉じずに朝(昼)食のメニューを思い出してみましょう。
自分を観察しつつ行ってみてください。
目を開いていればこのブログが映っている画面などが見えながら、おかずの乗ったお皿などのイメージが頭の中で”視えて”いるはずです。
つまり脳の中で認識できる視覚的(映像的)な情報ソースは必ずしも一つではない、ということ。
視える精度は人によって違うかもしれませんが。
自動化された情報抽出機能
目の前に飲み物が入ったコップがあるとしましょう。
それを見据えつつ「これ(飲み物、あるいはコップ)は何でもない、何の意味もない」と言ってみてください。
注意深く自分を観察すれば、たとえ否定していてもその物の名前、意味、味や色やエピソードなどが次から次へと意図せず湧き出てくるのがわかるでしょう。
視界に入っているものでかたっぱしから試して見てください。
捉え方によってはちょっと気持ち悪い感覚かもしれませんが、きっとわかるはず。
そしてそれは意識的に考えたものではなく、自動的に差し出された、潜在意識が挙げてきたレポートなのです。
つまりあなたには何かを見た瞬間に、意図せずとも「それは何々だ」という情報を脳内データベースから拾い上げてくる機能が働いているのです。
実験からわかること
脳は感覚器官からの刺激などによって常に働いており、その結果は随時もたらされます。
それらが意外な形で「意識」に現れてくることに驚かれた方もいらしたのではないでしょうか。
つまり普段何気なく行っていることの多くに、実は意識(意思)が関与していない場合があることに気がつけるのです。
幽霊を見たという経験に対する考察
先の実験から、
眠かったり疲れていたりで脳内の活動バランスがすこし崩れた時、その一瞬のミスで思わぬ経験をすることになる可能性があると思うのです。
実は貞子風の女性をみたというその前の晩、私はホラー映画を観ていました。
女性が一瞬見えたのは「暗い夜道」という視覚情報、キーワードや記憶から呼び起こされたイメージではなかったのか。
よくある話ですよね。次の瞬間にはもう居なかった、なんて話。
よく見ようと瞬きしたり、ちょっとよそ見した一瞬の後に消えてしまう。
はじめからそこに居たわけではない。雑念の一部が一瞬現実と重なって”視えた”に過ぎないのではないだろうか。
そう考えれば、距離なども関係がありません。
近眼や乱視であっても比較的はっきりとしたイメージをもって印象付けられることに不思議はないのです。脳の中のイメージとしてみているのですから。
これはよく怪談話にある「夜海の波間に浮かぶ不思議な頭」にも適用できる説明だろうとおもいます。
真っ暗な海の中で溺れている人が見える。助けに行かなくては!とあせって向かおうとするが友人に止められる。もみ合う中で友人が一喝、「なんで真っ暗で光もないのにあれの様子がよく見えるんだ!?」
ハッとしてみれば溺れていたそれはもはや跡形もなく消え・・・といったお話です。
また、腕組みしたおじさんの話は冷蔵庫と壁の隙間に見えた顔、などといった怪談話にも合致します。
普通に考えたら10cmにも満たない隙間に人の顔など、体など入るはずもない。
なのにそのように”視えた”のは何故なのか。
脳の中のイメージなのだから実際の三次元空間において辻褄があわなくなっても不都合はないのです。
人は生きていれば様々な刺激に晒され続けることになります。
視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚。
味覚はまぁこの際あまり関係ないかもしれません。(幽霊の味が・・・ちょっと酸っぱい!とはならないもんね(笑))
常にそれらの情報は脳に伝えられています。
あくまでもそれを処理しているのは潜在意識の部分であり、顕在意識へと挙げられる情報はすでに選別、調整されたあとのものなのです。
結局のところ、それがバランスを崩した脳のちょっとしたエラーであったとしても、意識はその”見た”という経験に説明をつけなければ気が済まないのです。
そしてそれは「意識」によって作り上げられたストーリー・説明によって不思議な体験へと昇華するのです。
かくして世の怪談話が数多生まれることになるのではないでしょうか。
つまり「幽霊を見た」というのは錯覚や一時的な脳内情報活動のエラーによる勘違いを「意識」が意図せず説明づけてしまった結果である、
と言うだけのことを言いたかったのですが・・・こんな長くなってしまいました。
なんか、すいません(^^;
もちろんこれで全てのいわゆる”心霊体験”を説明できる訳ではありません。そのつもりもありません。
しかしながらこれで説明ができる場合もあるのではないかと思っています。
あとがき
冒頭にも書きましたが、いわゆる心霊番組が放送されていました。
クオリティのあまりに低い、いかにもなフェイク動画を見て呆れつつも最後まで見てしまいました。(結局好きなんじゃん(笑))
実を言うと「幽霊」の存在自体を否定したいわけじゃないのです。
胡散臭い「霊能力者」やら「幽霊が見える人」を受け入れられないだけなんです。
さらに言えば「何の考えもなしにただ信じ込む人」が見ていられない。
人によっては微弱な電磁波を感知する能力を持っていたりすることがあるかもしれない。
昔探偵ナイトスクープで外からご近所さんの家の中でTVが付いているかどうかを感じ取ることができる、と言う人がいました。
不思議な話ですし、真実のほどはわかりませんが、そう言う意味では第六感と呼ぶものがもしかしたらあるのかもしれません。
(ただし五感に続くので”第六感”と言うだけの意味で、霊能力云々とは違うと思いますが。)
そして個人的体験は否定しません。否定できません。できるはずがないのです。
だって脳味噌を線でつないで主観的な感覚情報を共有できるわけじゃありませんから。確認のしようがない以上、否定もできないのです。
夜に強い光、たとえば車のヘッドライトなどを見て残像を感じている人がいるとしましょう。その人にとってはそこに光の痕跡としての「残像」が見えていることは事実です。それを「客観的に計測できるエネルギー場がない」からといって、今まさに感じているであろう感覚やその現象そのものを否定することはできません。
最後になりますが、
つまらぬ話でたわごと以上の何物でもないことは私自身がよく理解しております。
まぁ所詮素人の勝手な妄想なのであしからず。
・・・読み返すとびっくりするくらい浅くて薄い話(笑
以上!
(反対意見やご感想、各々、それぞれ、さまざまにあろうかとは思いますが、あくまでもこれは個人的見解に基づく、極々個人的な意見であることをご了解いただきたい。それをご理解いただいた上でのツッコミは大歓迎ですが、そうでない方には早々にご退出いただいて、あなたの意見にあう、あなたの聞きたい話が書かれているところにでも行っていただくのが、多くの場合幸せであることも申し上げておきたい。その場合はこれまた言うまでもありませんが、筆者はご高説賜るまでもない愚鈍ゆえコメントも不要とご理解いただければ幸いです。)
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