起木(おき)の弁天、と呼ぶのだそうです。
木が起きる?
地名なのかと思ったらそうでもないらしい。
とある伝承の残る地が八千代市村上にあるというので行ってみました。
実際は弁天さまはではなく厳島神社だったけど。
それにほら、子孫繁栄って大事じゃん?(謎)
起木の弁天(厳島神社)の伝承
久しぶりに伝説・伝承の残る地を巡ってみようかと、
古い時代の文献に当たっていたところ、
大正時代に書かれた『千葉県印旛郡誌』の阿蘇村の項に
「起木の弁天」
というものを見つけました。
(五)起木の辨天
村上區字堂後の田圃中にあり傳云合は昔(誤植?今は昔)境内廣濶大なる樫樹蓊鬱として茂生し中には周圍六尺に餘るもの珍しからず 境域の周りは所謂阿蘇沼繞りて今の蕞爾たる一小祠とは其のさま全く異れりき 然るに己年のあれに此の樫の大樹倒れて通行の妨害をなすこと少なからざりしかば一同集り明日を以て伐採せんことを協議しける 不思議なるかな其の夜半囂然たる人聲すと里人怪しみ居たり翌朝見れば昨日の倒木は自と起き伸びて常と異らず 里人以て辨財天の力となし歌ひて曰く見渡せば 野にも山にも はなれ嶋
伏したる木さへききのつか寺賓客常に多し
(『千葉県印旛郡誌』国立国会図書館デジタルコレクションより。※かっこ()は筆者補記)
要約すると、
むかしむかし、村上区字(あざ)堂後の田んぼの中には太さが六尺あまりもあるような大きな樫の木が生い茂っておりました。境内はいわゆる阿蘇沼をめぐり、今の小さな祠一つとは全く異なった様相でした。ところがその樫の大木が(嵐で)倒れて道を塞ぐことも少なくありません。里人は集まって明日にでも伐採しようかと話し合いました。その夜半のこと、がやがやと騒がしく人の声がするものだから皆で不思議に思っていると、翌朝にはなんと倒れていたはずの木が自ずと立ち上がり、元に戻っていたのです。
これは弁財天さまのお力によるものだと、
人々はそれ以来「起木の弁天」と呼ぶようになりました。
というお話。
ちなみに「阿蘇沼」については以前「おしどり伝説の残る鴛鴦寺」で触れています。興味のある方はどうぞ。
ところで大正時代にはすでに「一小祠」とあることから、その時代までにもうかなり縮小されていたようですね。
八千代市観光協会が作成したパンフレットには
起木の弁天・厳島神社
広い辺田前低地・水田の中に塚状に突起して「沖塚」と呼ばれていたが、周囲の土地がかさ上げされたため、現在はむしろ低地になっている。今は水のない池の中に弁天と厳島神社が祀られていたが 現在は厳島神社だけが祀られている。
(八千代市の歴史遺産散歩(八千代市観光協会)PDFより)
とあります。
もともとは阿蘇沼の周辺に弁天さま、厳島神社などが祀られていたのでしょうか。
それが時代とともにせばまり、いつしか小さくなった池の「沖塚」に両祠ならび祀られ、
やがてその池も姿を消し、残されたのは一祠のみ。
いざ起木の弁天(厳島神社)のある八千代市へ
場所は車が轟々と行き交う16号線のすぐ横、イトーヨーカドーから見て道を挟んだ向かい側の緑地にあります。
16号側に停められるような場所はないのでぐるっと回って反対側からアクセス。
さくさくっと到着。
たまに開ける人いるようですけど・・・自分は恐れ多くてとても開ける気にはなりません。
むやみに開けたり、ましてや開けっ放しにするのはやめましょう。
無論ここに限らず。
やはりここは風が強いのか台風で祠が倒れてしまったことがあったようです。再建の前年ですね。
樫の大木が倒れるくらいですから然もありなん。
2004年の11月の強風により新しい祠も飛ばされてしまいました
(「変貌する八千代の風景 村上駅周辺の史跡散歩 Ⅰ」より引用)
まとめ
今回は「起木の弁天(厳島神社)」について紹介してみました。
ところで、帰ってきてから色々調べていくうちに何やら面白い話を、面白いって言っていいのかな、なんとも言えない話を聞きました。
「起木(おき)」というところから、いわゆる男性機能の”起き”を願って参拝する方も絶えなかったのだとか。
うんまぁ・・・ね、ほら子孫繁栄って大事じゃん?(^^;
お悩みの方がいたら是非。
ということで久しぶりに 千葉ツーリング散歩 のお散歩記事でした。
またちょこちょことやって行こうかな〜と思っております。
おヒマな時にでもお読みいただければ幸いです。
では。
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