源三位頼政公の首塚から少し離れたところに
ここの地名となっている結縁寺という古刹があります。
寺伝によると開基は神亀年間(奈良時代724〜729年)、
今から約1300年前と云う。
結縁寺
結縁寺周辺は「印西八景」の一つに指定されているのだとか。
彼岸花などが有名なようですが残念ながら今は冬。
結縁寺由来
晴天山結縁寺の開創は、奈良朝の神亀年間僧行基全国歴遊の砌、この里の小堂に留錫し、天晴るる時白蓮井戸(花井戸)に影現するを観て、仏法東漸瑞相の霊地となし、自ら弥陀三尊の像を謹刻し一宇を建立したと伝えている。
結縁寺由来記によると、朱雀天皇の天慶年間真言僧この寺に住し、京都醍醐寺の直流臼井實蔵院末寺等、広範囲の地域民衆を対象に春秋二季に渡り大掛かりな結縁灌頂を修し、結縁寺の名起こり、六坊の成立を促し結縁寺の繁栄を確かなものにしていった。
当時結縁寺に六坊あり、安養坊、住持坊、山中坊、瀧本坊、台仙坊、梅本坊がそれで今も地名に残る。
伝承によると、治承の兵乱に源三位頼政公宇治に生害し、家臣その御首を携え、名馬に騎乗して東国に逃れ、この地に来り休息の折、御首俄かに重く進退の自由を失いたるにより、この里に御首を葬り自ら剃髪して住僧となり、主の菩提を弔ったという。名馬また斃れこれを埋めて名馬塚と名づけたといわれる。
大永の頃、「大比丘尼善智関東三十三度巡礼結願依夢告此所寂」と刻銘のある入定塚霊牌が熊野神社の石段上り口下に安置されている。
天正年間当山焼失し、什宝縁起等灰燼に帰したが、不動明王像が難を免れたという。
江戸期の『霊界年鑑』『真言三部書』の貴重な文書が所蔵されている。
江戸時代正保年間、江戸幕府キリシタン奉行井上筑後守が結縁寺の領主となり、頼政公供養のため、五輪塔を奉納し、遺物として注目されている。
元禄以後、六坊退転、伽藍また次第に荒廃し、今は左記の古仏と建物だけが現存している。
(現地看板より)
ちなみにここは無住寺で以前訪れた松虫寺住職が兼務しているそう。
印旛郡誌にみえる「頼政石塔」がそれだろうか
(千葉県印旛郡誌 国立国会図書館デジタルコレクションより)
結縁寺池
熊野神社
すぐお隣に熊野神社があるのでこちらにも参拝
入定塚
本堂の側にあり、傳伊勢國住人佐藤民部といふ者の娘、頼政公の墓を尋ね、此所に來り入定すと云、石碑に大比丘尼善智入定、伊勢國の住人□□□□娘、大永六丙戌年二月十八日、享保九年造立と見ゆ。
(利根川圖誌より)
大日塚の碑
結縁寺から北に300mほど行ったところ、
道路右手の畑の真ん中に「大日塚の碑」があります。
大日塚の碑
塚中央の榊の根元に祀られている無銘の石祠は寛永年間のものではないかと言われています。
石造物の中心は座像の金剛界大日如来であり、それには大日如来三身の真言の一つの「アビラウンケン」が横書きに彫られ、明和二年(一七六五)結縁寺村同行二十八人によって造立されたもので、近隣にその類例を見ない貴重なものです。そのほか江戸期に造立された文化三年(一八〇六)、弘化四年(一八四七)の二基で前者には湯殿山を上部にした三山塔、後者は上部に(アーンク)湯殿山と彫った湯殿山塔です。
神仏分離以降のものは明治年代のもの三基、昭和年代のもの二基、造立不明のもの一基の計六基で、それらのものは江戸期のものの櫛型・駒型などから自然石型になり刻銘も湯殿山上位型に変化し、明治の神仏分離過程をそこに見ることができます。
毎年十一月に新しいボンテンを立てて念仏講の人たちによってオタルガイ念仏が行われます。
(現地看板より)
まとめ
結縁寺周辺を巡ってみました。
前回の「頼政公の首塚(頼政塚)」はこちら
頼政公の首塚があることからちょっと怖いかな?なんてイメージを持っていましたが、
訪れてみれば自然が多く残るとても素敵な場所でした。
また、たまたまかもしれませんが犬の散歩をされている方がたくさんいたのが印象的。
ちょうどそんな時間だったのかな?
すれ違いざまにご挨拶いただくことも多く、とても気持ちの良い土地柄だなと感じました。
印西八景ということらしいので、
今度はもう少し暖かい時期に再訪しようと思います。
そして頼政公を祀った神社もいくつかあるようなので、
ちょっと回ってみようかと思ったり。
次は龍ヶ崎の頼政神社かな。
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