頼政神社 正一位頼政大明神(古河市)へ

バイク(2輪もろもろ)
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印西市にある頼政塚(頼政公の首塚)を訪ねてより、多生の縁もあろうかと頼政公に所縁のある地を巡っています。

前回は龍ヶ崎の頼政神社に参詣したので、
今回は古河の頼政神社へ。

本筋とは関係ないけど出先でGPS狂ってると困る!ものすごく困る!

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頼政神社 正一位頼政大明神(古河市)

ぱっと見、駐車場が見当たらないものの神社前に公園(古河公園)があり、その端っこにでも停められそうだったのでそのつもりで出発。
バイクなら全然問題ない。たぶん。
ただし未舗装なので足つきに不安があるなら要注意。

ちゃちゃっと到着。
こちらは神社前の古河公園。
古河公園

「古河藩作事役所址」の碑がある広場になっている。
城の修理関係などに携わる土木関連の役所があったということらしい。

水神宮

奥に鳥居が見えるので向かってみる
「水神宮」の扁額が見える
水神宮鳥居

ふと横を見るとそちらにも何やら建物が
境内社

これは・・・宝物殿という感じでもないな、境内社かな?
詳細は不明(調べてない)ながら一応ご挨拶
境内社

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戻って鳥居の先へ
鳥居の先へ

ちなみに緑のトンネルをくぐっていく中、
小さな虫たちが自分の前を導くように飛び交うのを見て
まるでジブリやないか(!)」と独り言を言って恥ずかしくなったのは秘密

なにやら社が見えてくる
社が見えてくる

こちらは「水神宮」の社殿
水神宮

脇には庚申塚などがならべられている
狛犬の姿も
庚申塚など

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頼政神社 正一位頼政大明神

水神宮の先に頼政神社の社殿がある

頼政神社 本殿
頼政神社 本殿

もともとの社殿は少し離れた「立崎曲輪(頼政曲輪)」という場所にあったそう。
渡良瀬川の河川改修工事のため、大正元年(1912年)に古河城北端の現在地に移転されたのだとか。

正一位頼政(よりまさ)大明神といい、源三位(げんざんみ)頼政が祀(まつ)られている。治承4年(1180)、源頼政は平家と宇治で戦ったが、利あらず自刃した。そのとき従者に遺言して「我が首を持ち諸国をまわれ、我れ止まらんと思う時、必ず異変が起きよう。その時その場所へ埋めよ」といった。従者は、諸国をめぐって下総国古河まできて休息した。再び立とうとしたが、その首が急に重くなって持ち上がらなかった。不思議に思ったが、遺言どおりその地に塚を築いた。これが頼政郭だという。

この場所は古河城内南端にあたり竜崎郭(たつざき ぐるわ)ともいったが、明治時代末に渡良瀬川改修工事のため削り取られて川底になってしまうことから、現在の地に移された。その時、神社跡から古墳の副葬品と思われる金環・管玉(くだたま)・小玉・矢の根・大刀の断片が発掘され、現在は社宝として保存されている(市指定文化財)。
頼政神社 古河市HPより)

ここはかつてあった「古河城」の土塁の上なのだそう。

現在の社殿は古河城北西端の観音寺曲輪土塁上に建てられている。この土塁は、わずかに残された古河城遺構の一つでもある。境内社として、頼政守護神の八幡宮、船渡町から移した水神宮、石町から移した大鳥神社がある。
頼政神社 wikipediaより)

せっかくなので頼政神社正面の参道の階段からも紹介してみる。

階段
階段

階段途中左手にある看板
看板

古河市指定有形文化財・歴史資料
頼政神社 手水鉢 一基・灯籠 二対·狛犬 一対

元禄九年(一六九六)、古河城主松平信輝は、城内の立崎郭に先祖源頼政の墳墓(廟所)があることを知り、その社殿を修築してこれをまつった。その時、信輝の弟で高崎城主であった松平輝貞が大灯籠一対を寄進し、家臣たちが手水鉢一基・灯籠一対を奉納した。
 とくに輝貞寄進の大灯籠は、寄進者は判明しないものの、狛犬一対とともに江戶時代前期のすぐれた作風を今日に伝える石造遺品として注目される。
 なお、頼政神社は大正元年(一九一二) に河川改修のため、立崎から現在地に移された。

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一の鳥居
一の鳥居

右手に手水舎、左には掲示板
手水舎

灯篭一対
灯篭一対

この灯篭は木の陰に隠れて目立たないが、
近くに行くとその大きさにちょっと驚く
ものすごく立派

二の鳥居
二の鳥居

鳥居をくぐった右手には稲荷社 
稲荷社

スタンプラリーもあるらしい
スタンプラリー

狛犬一対
狛犬一対

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まとめ

ということで古河市の頼政神社に行ってきました。

途中道を間違え、
iPhoneに入れた「Organic Maps」というオフライン地図を起動、現在地を確認。

ふむふむ、この先を左に行けばあの道に戻るわけだね?

・・・戻らんやん!てかここどこ!?団地に囲まれてますけど!!!
みたいなのを繰り返すこと数回。なんとかたどり着きました。

結論から言うとiOSのアップデートで一部アプリにおいてGPSが狂う症状があったらしく、完全に迷わされました。
その辺も帰宅してからわかったわけだけれども。(ーー;

まぁそれはさておき、
こちらの頼政神社にも「首塚伝説」があるようです。

古河市HPの記述にあったように、古墳の上に神社が建てられていたことが移転の際に発見されました。
古墳の年代は6世紀後半、忘れ去られていた遺跡に伝説が結びついたのでしょうか。

郎等(家臣)が御首を運んだことは史実としてありそうなもの。
ただ頼政自刃は旧暦5月26日、現在の7月頭頃というからかなり気温は高かったように思われます。

移動手段が限られる中で当時、京都の宇治平等院から下総の地まで運ぶのは相当難儀したのではなかろうか。

昔は近くに「香取海(かとりうみ)」という大きな内海があり、たくさんの河川が流れ込んでいました。
海上交通も盛んだったようです。

とすれば陸路より海路で運ばれたと言う方がしっくりくるかもしれない。
印西市の首塚の近くには御首を運んだ「名馬塚」があったけれど。

一方、
実は頼政公が最期を迎えた平等院から直線距離にして24kmほど離れたところにも
「頼政塚」と呼ばれる場所が存在します。
こちらにも同じく「首塚伝説」があり、距離的にも無理がないと言うか・・・
さらに近くには「矢田」という鵺退治の褒美として頼政公が拝領した地があるらしいので縁もあって・・・

なのでおそらくその話がこの地にまで伝わり、遠祖頼政を祀る際に伝承として定着したのではないでしょうか。

そしてもう一つ気になってしまうことが。
古河のは古墳であったとして、龍ヶ崎もおそらくよくある池の小島に建てられる類の祠かと。

なら印西の塚はもともと・・・何なの?誰のなの?
「ん〜いつのまにかそうなっちゃったんだよねぇ(のんびり」とか言う人が塚の下に居そうで怖い(興味深い)

とりあえず今回は以上!

※素人の感想なのであしからず

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